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(なんで言わねーんだよ……)
そんな素振り、今まで一度も見せなかった。むしろ鬱陶しがられていると思っていたぐらいだ。
だが、狗飼の動揺っぷりを見る限り、その泥酔女性が言っていることがまるきり嘘ではなさそうだ。
それに、狗飼は伊織のことに異様に詳しかった。はるか昔にインタビューで答えたようなことをいちいち知っている。
ファンなのだとしたらかなり熱心なファンだ。
伊織は何とも言えない気恥ずかしさに頬が熱くなっていくのを感じた。
(うわー……そうだったのか、うれし……いや、最悪だ! ファンだって知ってたらちゃんと猫被っておいたのに!)
今更取り繕いようもない。
後でサインでも書いてやろうかと思っていると、加菜が笑いながら続けた。
「……でもいおりん成長してフツーの男になっちゃったからねー。途中から黒歴史扱いでファン辞めしてたけど、あの時すごかったよね。騙されたー、とかマジ泣きしてんの。てゆーか、だから最近、早馬引っ越し先探してたのか〜。ここ住んでたらあの時の黒歴史思い出しちゃうもんねー」
火照っていた頬が、急速に冷えていくのを感じた。持っていたスマホが手から滑り落ちそうになり、慌てて掴み直す。
(……そっか。そうだよな)
どうして今でも、ファンのままだと思ったのだろう。
自分はあの頃の容姿とはまるで違うのに。
未だに芸能界にしがみついて、放送事故でトレンドに載って大喜びする自分を見て、元ファンの狗飼はどう思っていたのだろう。
あのアンチコメントのように、惨めで醜いと思っていたのだろうか。今の伊織の姿を、見たくなかっただろうか。
だから、伊織と距離を取りたがっていたのかもしれない。そうとも知らずに何度も無理やり部屋に上がり込んでいた。
だがまさか、引っ越し先を探すほどだったとは。
伊織は震える手を握り締めながら俯いた後、自分を納得させるように何度かゆっくり頷き、「そうだったんだね」と静かに微笑んだ。
「……加菜、黙れ」
狗飼が凄むような剣幕で制した。少し恐怖を覚えるぐらい怒りに満ちた声だった。
「早馬キレてるからもうやめとけよ加菜。第一、失礼だろ……あの、スミマセンこいつすげえ酔ってて」
男子学生の一人がいさめるようにそう言って、伊織に謝罪した。
狗飼は険しい顔で加菜の肩を掴んで引き離すと、隣に立つ友人に押し付けるように乱暴に渡した。
「今日は解散で。お前ら今すぐ帰ってくれ。……絢斗悪い。後頼む」
えーっとブーイングが上がるが、絢斗と呼ばれた男が、「朝4時までやってる居酒屋、この近くにあるから行こうぜ」といさめた。
「三笠さん!」
話があると小声で言われたが、伊織は静かに首を振り、自室の部屋のドアノブを掴んだ。
「じゃあ、俺はこれで。三次会、楽しんで下さいね」
狗飼の制止を振り切って、自分の部屋へと戻り、乱暴に鍵を閉めてチェーンまでかけた。
今日はもう、これ以上どんな言葉も聞きたくなかった。
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