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2.事故物件・前編
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東京都文京区某所にある小綺麗なマンションの7階のベランダから、伊織は街を見下ろした。
文京区は坂の多い街で、緑や寺社仏閣も多く、景色がいい。近所にはスーパーもいくつかあり、治安もよく暮らしやすい街に思えた。
何より、ベランダが広めなのが嬉しい。
「事故物件」と言われてもっとおどろおどろしいマンションを想像していたが、オートロック付きで新しく、思っていたよりもずっと綺麗だった。
この部屋では三年前に自殺者が出ている。身寄りがなく、発見が遅れたため後が大変だったらしい。
だが、きちんとリノベーションされ、もうそんな痕跡は一つも残っておらず、正直今まで住んでいたボロアパートの方がよっぽど不気味だった。
そう思いながらも、伊織はカメラの前で恐怖に怯える顔を作った。
「いや、なんかもう……入った瞬間から、肩が重い感じがして……」
間取りとしては、入ってすぐ廊下があり、右手にバストイレに通じるドアがあり、左手にクローゼットがある。奥にはドアが二つあり、左手はリビング、右手は寝室に通じている。
奥の二つのドアは、曇りガラスが張られている。リビングへ続くドアが、自殺の〝現場〟だという。
予めその情報を頭に入れていた伊織は、ドアの前でわざとらしくならない程度に目を見張って身震いした。
「……特にこの辺りにくると寒い感じがしますね」
「あっ、まさに今伊織君が立ってるそこで……亡くなったみたいで……」
番組スタッフの言葉に伊織は両手で口を押さえて青ざめた顔をした。
その後は一つ一つ部屋を確認しながら怯えた演技をして、一通り撮影を終え、「今日は眠れません」と泣き言を言う伊織にディレクターから「途中で企画をリタイアしたらアイドル引退」というサプライズを受けて半泣きになるところで撮影が終わった。
「はいカット―! さすがだねーいおりん。怯え演技いいよ」
「ありがとうございます」
ディレクターの佐伯に褒められ、上機嫌に伊織は頷いた。
「放送初日だけ、部屋に中継繋いで生配信もして貰う予定だから、その時もよろしくね。あと、ちょっとでも怪奇現象って言い張れそうなネタあったら渡したカメラで自撮りもしといて。良い感じに編集しとくから」
「はい、わかりました」
生配信の段取りを確認すると、伊織はADやらカメラマンやらディレクターを見送るために玄関から廊下に出た。同じ階の廊下は二部屋のみだ。
佐伯ディレクターが耳元で囁いた。
「今夜寝られないなら俺泊ってあげよっか?」
「えー、別の意味で危険なのでいいです」
ニコニコとしながら答えたが、本心だった。
佐伯ディレクターとは小さい頃から何度も一緒に仕事をしている。伊織のことを大層気に入ってくれており、今回もこうした企画に抜擢してくれてありがたいが、「若く可愛い男の子が好き」という悪癖を持っているらしく、少々面倒だ。
「いいの? 本当に出るんだよーここ。途中でリタイアしたらアイドル引退だよ?」
「……それ、ただの企画ですよね?」
「いや、マジのマジだよ。事務所の意向なの。飛鳥井くん電撃引退以来パッとしなくて……そろそろ見込みないタレントは整理したいんだって」
「え……?」
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