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マンションに戻ってくると、伊織はいつものように寝室に駆け込むことも忘れてぼんやりと玄関に立ち尽くし、重い溜息を吐いた。
ファミレスで台本を覚えていたが、セリフが随分と少なくなっていたのだ。
主人公の友人役だが、かなり出番が多い役どころのはずだ。
(また俺の出番、削られたんだ……)
監督は相変わらず、今の伊織の演技を認めてくれない。
厳しい監督で、子役時代も怒られることはあったが、一方で、認めてくれていた。将来が期待できるとまで言ってくれて、周りにいた大人達が監督にそんなことを言わせるなんてすごいことだと褒めてもくれた。
だが、期待の将来となった今は、アイドル崩れの演技しか出来ていないと怒鳴られ、脚本と話し合い、日に日にセリフが減らされて言っている。
バラエティの仕事は反響がイマイチだと、オファーが来ない。社長の言うことも、三浦が言うことも分かる。
「俺、もうダメだなのかなぁ」
靴を脱ぎながら思わず、小さく呟いた。
──ソウダヨ。ダカラモウ、シネ
リビングの奥から、囁くような声が返ってきて、伊織はハッとした。幻聴かと思ったが、妙に生々しく耳に残っている。
ゆっくりとリビングへつながるドアに近づき、かけていた黒い布を取り払った。
そこには相変わらず若宮の霊が静かに吊り下がっていて、やはり何か言いたげにこちらに強い視線を向けている。
それを見て、恐怖よりも何か得体の知れない別の感情が沸き上がってきた。
「……なあマサ君。マサ君は寂しかったから、首を吊ったのか?」
無言の幽霊に、尚も語り掛けた。
「思い出したんだ。握手会の時のこと。二回目に来てくれた時、俺が名前を呼んだら、すごく嬉しそうにしてくれたよな」
正直、若宮は印象が薄く、合っているか少し自信がなかったが、それでも恐る恐る名前を呼んだ。
──マサくん、ですよね? また来てくれてありがとう
そう言ったとき、若宮はまるで別世界に来たとでもいうように放心して、分厚く覆われた前髪の向こうで瞳を揺らし、黙って何度も頷いた。
──あ、あ、ありがとう。名前、覚えててくれて……
「マサくんの気持ち、分かるよ。覚えててもらえるのってすごく嬉しいよな。だから俺、名前と顔は絶対忘れないんだぞ。すごいだろ」
語り掛けながら、伊織は少し笑った。
シネ、シネ、と囁く声が依然としてリビングから聞こえてくる。
「でも、今の俺は、ひどいな。マサ君の言う通り……こんなひどい姿を晒すぐらいなら、死んだほうがいいんだ。俺が死んで悲しむ人もいないし。俺も、すぐそっちに行くよ。マサ君、今もまだ寂しいんだよな? だら俺を〝呼んでる〟んだよな?」
その時、ドンッという音がして我に返った。若宮の霊がギシギシと揺れ、壁を蹴る音だ。
伊織はハッとして、慌てて布をかけ直して寝室に駆け込んだ。心臓が、激しく早鐘を立てている。
「……今俺、なんて言った?」
死んだほうがいい。そっちに行く。確かにそう言っていた。
──彼らには実体がありませんから、実際にあなたを刺したり、首を絞めたりと言ったことは出来ません。ただ、心が……引っ張られることがあります
狗飼の言葉を思い出し、ぶるりと背筋を震わせた。
生ぬるい水道水を口に含み、ピルケースから取り出した薬を飲み込む。
隣のリビングからは依然として、ドン、ドンという壁を蹴る音が続いていたが、すぐに薬が効き始め、伊織は沼底に沈むような深い眠りについた。
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