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不意にドンッと音がして、伊織は足元から崩れ落ちた。椅子が倒れたのだ。
だがまだ首は輪の中に入れていなかった。
首は括られないまま落下し、床に激しく尻もちをつき、伊織は痛みに呻いた。
気づくとそこは自分の部屋のリビングだった。
ステージなどどこにもなく、歓声も聞こえない。
静かな部屋の床に倒れた椅子と細いロープが転がっていた。
ぼんやりとしたまま、伊織はその細いロープに手を伸ばし、ドアノブにかけた。
なんとしても、今死ななければならない。何かに魅入られたようにそう思っていた。
その時。
ドサッという何かが落ちる音がした。
若宮の、腐敗した死体が這いながら、ズッ…ズッ…と伊織に近づいてくる。
「ア……ア……」
人間の声とも思えない不気味な声で、何かを言おうとしていた。
「マサくん、俺もそっちいくよ。もっと早く、まだ綺麗なうちにこうしてればよかったな」
音もなく伝い落ちる涙をぬぐいもせずに言うと、若宮は尚もうめき声を上げながらこちらに手を伸ばしてきた。
首を絞められるのだと思ったが、もう恐怖は感じず、目を閉じた。
だが、いつまで経っても苦しみは訪れない。
ふと両手に、ひんやりとした感覚がして目を開けた。若宮の手が、伊織の手を握っていた。まるで氷のように冷たい手だった。
「ダ、ダ……メ……、……ナ、イデ……シナ、ナイデ………」
「なんで……」
死なないで。
壊れたテープレコーダーのように繰り返し、若宮は縋り付くように伊織を抱きしめた。
──死なないで
その瞬間、なぜか涙が溢れて止まらなくなった。白昼夢のように白く覆われていた思考が、急に晴れていく。
ハッとして正気に戻った時、若宮の霊は見えなくなっていた。
「なんだ……今の……」
一体、自分は何をしていたのか。夢から醒めても、呆然としてしまって状況の整理が出来ない。
だが今、自分は間違いなく首を吊ろうとしていて、若宮が止めてくれなかったら死んでいた。
「マサ君……助けてくれたのか」
でも、どうして。
若宮はいつまでもみっともなく芸能界にしがみついている伊織を、醜いと憎んでいたのではなかったのか。
鞄の中から台本を取り出してみると、やはりそこには不気味な首吊りの絵が描かれていた。
これは、伊織が知らないうちに自分で描いたというのか。
ひしゃげたラズベリーケーキ。不気味な電話。焼かれたポスター。夜な夜な死へといざなう声。
もし若宮が、自分を助けてくれたのなら、そんなことをするだろうか。
(そうだ、昨日……)
伊織は手を震わせながら首に触れた。昨日の夜中感じた強烈な違和感を思い出した。
あの黒い影が寝室で自分の首を絞めているとき、リビングからずっと、「ドン、ドン……」と音がしていたのだ。まるで何かの警告のように。
若宮の霊はリビングにいた。彼は地縛霊だ。この部屋にしか姿を現さない。
ではあの黒い影は一体、なんだったのか。
(いるんだ。マサ君の他に……この部屋には〝何か〟が)
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