3.事故物件・中編

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不意にドンッと音がして、伊織は足元から崩れ落ちた。椅子が倒れたのだ。 だがまだ首は輪の中に入れていなかった。 首は括られないまま落下し、床に激しく尻もちをつき、伊織は痛みに呻いた。 気づくとそこは自分の部屋のリビングだった。 ステージなどどこにもなく、歓声も聞こえない。 静かな部屋の床に倒れた椅子と細いロープが転がっていた。 ぼんやりとしたまま、伊織はその細いロープに手を伸ばし、ドアノブにかけた。 なんとしても、今死ななければならない。何かに魅入られたようにそう思っていた。 その時。 ドサッという何かが落ちる音がした。 若宮の、腐敗した死体が這いながら、ズッ…ズッ…と伊織に近づいてくる。 「ア……ア……」 人間の声とも思えない不気味な声で、何かを言おうとしていた。 「マサくん、俺もそっちいくよ。もっと早く、まだ綺麗なうちにこうしてればよかったな」 音もなく伝い落ちる涙をぬぐいもせずに言うと、若宮は尚もうめき声を上げながらこちらに手を伸ばしてきた。 首を絞められるのだと思ったが、もう恐怖は感じず、目を閉じた。 だが、いつまで経っても苦しみは訪れない。 ふと両手に、ひんやりとした感覚がして目を開けた。若宮の手が、伊織の手を握っていた。まるで氷のように冷たい手だった。 「ダ、ダ……メ……、……ナ、イデ……シナ、ナイデ………」 「なんで……」 死なないで。 壊れたテープレコーダーのように繰り返し、若宮は縋り付くように伊織を抱きしめた。 ──死なないで その瞬間、なぜか涙が溢れて止まらなくなった。白昼夢のように白く覆われていた思考が、急に晴れていく。 ハッとして正気に戻った時、若宮の霊は見えなくなっていた。 「なんだ……今の……」 一体、自分は何をしていたのか。夢から醒めても、呆然としてしまって状況の整理が出来ない。 だが今、自分は間違いなく首を吊ろうとしていて、若宮が止めてくれなかったら死んでいた。 「マサ君……助けてくれたのか」 でも、どうして。 若宮はいつまでもみっともなく芸能界にしがみついている伊織を、醜いと憎んでいたのではなかったのか。 鞄の中から台本を取り出してみると、やはりそこには不気味な首吊りの絵が描かれていた。 これは、伊織が知らないうちに自分で描いたというのか。 ひしゃげたラズベリーケーキ。不気味な電話。焼かれたポスター。夜な夜な死へといざなう声。 もし若宮が、自分を助けてくれたのなら、そんなことをするだろうか。 (そうだ、昨日……) 伊織は手を震わせながら首に触れた。昨日の夜中感じた強烈な違和感を思い出した。 あの黒い影が寝室で自分の首を絞めているとき、リビングからずっと、「ドン、ドン……」と音がしていたのだ。まるで何かの警告のように。 若宮の霊はリビングにいた。彼は地縛霊だ。この部屋にしか姿を現さない。 ではあの黒い影は一体、なんだったのか。 (いるんだ。マサ君の他に……この部屋には〝何か〟が)
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