2.事故物件・前編

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■ 「くっそー……あの帝大生、余計なこと言いやがって。何が〝必死な人〟だよ。佐伯キレてたしめんどくせーな」 必死な人という言葉に無性に心を抉られた。 体を張って大怪我をして、それでもこの世界に残りたいと思う芸人の気持ちが今なら分かる。 他に居場所がない人間にとって、世間から忘れられることがどれだけ恐ろしいか。それはあの学生には絶対に分からない。 惨めな気持ちを紛らわせるように悪態をつきながら、伊織は撮影用のメイクを落とそうと洗面所の鏡を見てハッとした。 そこには思った以上に疲れて、寂しそうな自分の顔があった。 頭の中では今でもスポットライトを浴びていた頃のメイクルームの鏡で見た溌剌とした自分の顔が焼き付いていて、脳内とのそのギャップに驚いた。 ──三笠伊織 劣化 不意にそんなサジェストが頭をよぎった。自分はそんなにも、あの頃に比べて劣っているだろうか。あれほど応援してくれた人々の心には、もう伊織のことは片隅にも残っていないのだろうか。 どうして、どうして、どうして。 悲鳴のような声が胸の中から沸き上がってきたが、その時、それに気づき、伊織は思わず「うわっ」と声をあげた。 洗面台の鏡にべっとりと指紋がついている。 「普通次の住人に引き渡す前にクリーニングとかするよな……」 事故物件なら猶更念入りにクリーニングしたはずだ。 実際、鏡自体はピカピカに磨き上げられていた。その指紋だけが、妙に生々しく、つい最近付いた物のようにくっきりしていた。 おそらく引っ越しで洗面用具を配置していた時に、気づかないうちに業者が手をついていたのかもしれない。 そう思いながら、布巾で指紋を拭き取り、顔を洗っていると、ふと、パシャパシャという水で顔を打つ音に混じって「バンッ!」と大きな音がして驚いて顔を上げた。 鏡には、二つの手の指紋がくっきりとついていた。まるで今、誰かが鏡に向かって「バンッ!」と両手を突いたように。
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