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衛士は伊織に「何も無かった」と伝え、伊織もそれを信じてくれたが、彼はそれから長いこと塞ぎこんでいた。
カメラを向けられれば笑っていたが、楽屋に戻ってくると、どこかいつもぼんやりとしていた。
──みんな言うんだ。〝あの頃は可愛かった〟って。ファンレターの内容全部それだよ。昔の俺の話ばっかり。
伊織は成長していく自分と、世間が自分に対して求める〝商品価値〟のギャップに、ずっと苦悩していた。
乱暴された記憶がなくても、四ノ宮が自分を乱暴しようとしていたところまでは記憶がある。唯一自分を認めてくれていると思っていたのに、裏切られたのだ。そのショックは計り知れない。
伊織は今が一番いい。素のままが一番いい。無理に自分を商品化しなくていい。
それを面と面向かって伝えるのは照れくさかったというのもあるが、自分より、彼が大切にしているファンから言われた方が彼にとって嬉しいだろうと思った。
衛士は伊織が自分を本当の意味で〝見て〟くれていることが嬉しかったし、同じことを、彼にも返したかった。
だからわざと、全くの別人のように堅くかしこまった文章で、伊織に手紙を書き、差出人名を「A」とした。
アルファベットにすると匿名めいているが、自分のあだ名でもあった。
伊織はAからのファンレターを読み、涙ながらに久しぶりの笑顔を見せてくれた。衛士はそれからも、定期的に伊織にファンレターを送っていた。
Lamentの活動は続いたが、衛士はどうしても不安が消えなかった。
あの動画は全て機材ごと破壊し、プロに頼んで間違いなく消えていることを確認してもらったが、密かにバックアップを取っているという可能性も否定はできない。
四ノ宮がいつかまた、伊織の元に現れ、真実を告げるかもしれない。
そしてもう一つ、厄介なことがあった。
伊織を助け出すとき、母の愛人の手を借りた。四ノ宮の居場所の特定も、マンションへの侵入も、動画データの完全消去も、組員たちが全てやってくれた。
『衛士。お前の頼み聞いてやったんだ。こっちの仕事も手伝え』
母の愛人である後藤にそう言われていた。
『……断るって言ったら?』
『お前の大事な大事な相方、今度はうちの組員にヤられちまうかもな』
彼らは冷酷だ。やると決めたらやる。だから、後藤に手を貸すしかなかった。
──衛士は真面目だから、そんなことしない。俺は分かるよ
伊織は週刊誌が出る度にそう言って、衛士の身の潔白を信じてくれていたが、その信頼を裏切る形になった。
後藤の元で手を汚しながら、一体どうしてこうなってしまったのか。どうしていればよかったのか、長いこと思い悩んだ。
そして衛士は18の時に、芸能界を辞める決意を固めた。言い逃れ出来ないネタを週刊誌に掴まれる前に引退しないと、伊織まで巻き込むことになる。
まだ、自分と組織の繋がりのことだけならいいが、四ノ宮の事件のことまで嗅ぎつけたら厄介だ。
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