4.事故物件・後編

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(なんだ……) 先ほどまで目の前の男を「殺したい」だったのが、明確に「殺す」に変わり、思考がぐちゃぐちゃに散らばっていく。 ──シノミヤ、コロス、コロス、コロス、コロス (やば、い……) この感覚は、何度か体験したことがある。霊に、乗っ取られる感覚だ。 強い主張がある霊だと、油断している時にたまにやられるが、大抵は、自我をしっかり持っていれば完全に乗っ取られることはない。 それなのに今は、体ごと全て乗っ取られていくようで、自分の意思がまるで役に立たなくなっていく。 いや、乗っ取られていくというよりは、まるで溶けるように同化していく感覚だった。 この霊に、飛鳥井衛士の霊に、自分の感情がシンクロしているからだ。 人生を棒に振っても、この男を殺したいと思う程、憎しみに駆られていた。 伊織は恩人だ。交通事故で一転してしまった自分の視界と人生。 人生に絶望した時、その笑顔で救ってくれた。 今度は自分が、この悪魔から伊織を守るときだ。それが、最善の選択だ。 抱きかかえていた伊織をその場に下ろして寝かせる。 「い、狗飼……? 何を……」 伊織の戸惑いの声に応えず、狗飼は四ノ宮に向かってナイフを向け、そのまま突進した。 「なっ……」 四ノ宮はまさか狗飼が本当に自分を刺すとは思わなかったのだろう。 慌てて逃げようとしたが、ナイフは腕を掠めた。 血がぽたぽたと、埃まみれの劇場の床に垂れて広がっていく。 「次は間違いなく殺す」 そう言って逃げようとする四ノ宮の胸倉を掴むとその場に押し倒し、ナイフを振りかざした。 すると彼は両手を上げて自分の顔を庇うように両手を上げながら、叫んだ。 「待ってくれ! そんなヤツに、将来有望な君が人生棒に振ることないだろう!」 「そんなヤツ? 俺にとってはなぁ、三笠さんは命の恩人なんだよ! 人生賭けて推してんだ! それをこんなになるまで追い詰めやがって! 醜いのはどっちだ! ぶっ殺してやる!」 その時、「狗飼!!」と悲痛な伊織の悲鳴が上がった。彼はクスリで自由の利かない体を引きずって、傍に張って来て、ナイフを持つ狗飼の手を掴んだ。 「やめろよ、やめてくれ……っ」 「離してくださいよ。こいつ殺さないと、貴方を救えないんです」 荒い息を吐きながら、ギラギラとした殺意に満ちた目を四ノ宮にぶつけたまま言うと、「違う!」と伊織は叫んだ。 「俺……ファンに笑顔になって欲しくて、アイドルやってたんだよ。辛いときも、苦しい時も笑ってたんだよ。そんな顔させるために、やってたんじゃねーよ……頼む。本当にファンなら、お願いだからやめて……お前にそんなことをされたら、俺……もう二度と笑えないよ。立ち直れない」 涙ながらに懇願するようにそう言われた時、ふっと全身を支配していた力が抜け、手からナイフが滑り落ちた。 自分の中から、何かが出て行く感覚がして、それからすぐ後ろで、飛鳥井衛士の声がした。 ──ゴメン、ゴメン、イオリ、ゴメン 黒い影のような微かな姿が見える。 伊織にはその姿が見えているのだろうか。クスリの影響でぼんやりとした顔のまま、彼は心底不思議そうに呟いた。 「なんで……衛士がここに……?」 ──ゴメン、イオリ、ユルシ、ユルシ、テクレ、ユルシテクレ、オレ、ユルシテクレ、オマエノコト、ユルシテクレ、ワカッテナカッタ……、ゴメン…… 壊れたテープレコーダーのように繰り返される声。すると伊織は、ふっと笑い、目に涙を浮かべて言った。 「もうとっくに許してるよ。ずっと、意地張っててごめん」 その笑顔を見て、黒い影は、まるで蝋燭の炎のように揺れ、フッと消えてしまった。
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