2.事故物件・前編

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「え……」 伊織は目に見えない誰かが今この場にいることを想像し、ゾッとして、顔も拭かずに逃げ出した。 だが、すぐに立ち止まり、無心で撮影用に渡されたカメラを震える手に取り、鏡を撮影した。 怖くて手が震える。 だが、これから始まる番組の視聴者は「怖い」を期待して見ているはずだ。 それならば、それに応えなければならないと思った。 ■ それからも、時折ノイズだらけの無言電話がかかってきたり、部屋に一人でいると奇妙な視線を感じることがあった。 何より気味が悪いのは、夜になると時折、どこからともなく「ドン……ドン……」とドアを叩くような音が聞こえてくることだ。それは大抵数分で止まるのだが、その音を聞くと、妙にゾッとしてしまう。 アルバイトとレッスンに明け暮れ、なるべく寝るときだけ帰るようにして、ようやく放送初日を迎えた。 スキンケアはかなり念入りに行っていたが、肌に一番大事な睡眠が不足しているため、どうも調子が悪い。それでも伊織は四捨五入をしたら30になるという年齢になってもシミ一つない美しい肌をキープしていた。 生配信に備えて念入りに部屋を掃除し、寝不足で痛む頭を押さえながらゴミ捨てに行こうとすると、ちょうど隣のドアが開いた。例のイケメンの隣人だ。初日以来、初めて顔を合わせた気がする。大学に行くのだろう。キャンパスバッグを手にしていた。 嫌な現場を見られているだけあり、あまり顔を合わせたくなかったが、エレベーターは一つしかない。 「おはようございます。ええと……」 「ああ。狗飼です。狗飼早馬」 「狗飼さん」 引っ越しの跡片付けで溜まった梱包材のゴミがぎっしりと入った袋を二つ抱えて歩いていると、彼は何も言わずにその一つを手に取った。 「え? あっ、すみません」 「……別に。どうせついでなんで」 (なんだよ、結構いい奴じゃん) 現金にもそう思っていると、狗飼は伊織の横顔をちらりと見て言った。 「……大丈夫なんですか? 顔色悪いですけど」 「そうですかー? 昨日夜更かししちゃったから肌の調子悪いかも」 ニコニコしながら言ったが、狗飼は呆れたように眉を寄せて言った。 「体調崩してるなら、本当に引っ越した方がいいと思いますよ。恐怖を感じると、ノルアドレナリンが出て不眠になるんで」 余計なお世話だ、と思ったが、伊織は内心、さっさとこの企画を終わらせて引っ越したいと思っていた。だが、これが仕事である以上そういう訳にはいかない。 リタイアしたらアイドルを辞めなければならなくなるかもしれないし、番組を途中で降りるなんてことになったらスタッフに多大な迷惑が掛かる。佐伯ディレクターから見限られたら本当に仕事がなくなってしまう。 色んな意味で、絶対に辞めることが出来ない企画だった。 学生の質問には答えず、代わりに伊織はにっこりと笑って言った。 「今夜、初オンエアなんです。AMIDA TVっていうネットTVで10時から配信されるので良かったら見て下さい。途中で生配信もするんですよ~」 「……その時間は用事があるんで無理ですね」 「えーそうなんですか~。残念です」 伊織は眉を寄せて心底残念そうに言ったが、「感じ悪い奴」と内心では悪態を突いていた。
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