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人の心なんて、移り変わりが激しい。
きっとまた、別に推しが出来たら夢中になるくせに。そう思うけれど、狗飼の言葉には不思議な力があり、伊織は少しだけ救われたような気がした。
〝A〟から初めて、手紙を貰ったときのことを思い出した。
(Aさんは……ずっと忠告してくれてたのかな)
一体、誰だったのだろう。そう考えた時、まるで見当もつかないのに、不意に得体の知れない喪失感と悲しみがこみ上げてきて、視界がぼやけた。
「なあ、あの時……あの廃劇場に、衛士もいたよな?」
あれは夢だったのか、現実だったのか分からず、狗飼に聞くと、彼はしばらくの沈黙の後、僅かに首を縦に振った。
「……いましたよ。あなたを心配して、来てくれてたんです」
伊織は、その言葉に瞳を揺らした。
「……あいつ、LIME勝手に辞めやがったんだ。……今どこで暮らしてるとか、なんか言ってた?」
狗飼は少し悲し気に眉根を寄せて言った。
「いいえ。……しばらく、遠くへ……海外へ行くと」
「なんだよ勝手に。せっかく絶交解いてやったのに。一緒に、メシ行ってやろうと思ってたのに」
次はいつ、会えるんだろう。
なぜかもう二度と会えないような気がして、寂しさに、泣きそうな顔で俯いた。狗飼はそれ以上何も言わず、ベッドからギシッと音を立てて立ち上がった。
「まだ、体も本調子じゃないでしょう。ゆっくり寝て下さい。明日も休みって、三浦さんには連絡入れておきましたから」
「お前……いつのまに三浦と……」
手際の良さに呆れたように目を細めたが、確かにまだ、体が怠かった。
布団をかけ直されると、急激に眠気がこみ上げて、瞼が重くなってきた。
「俺、ずっとここにいますんで。安心して寝てください」
その言葉に留めを刺されたように、伊織は眠りについた。
夢の中で、また衛士に再会した。
数年ぶりに会った衛士は、あの頃よりもずっと大人っぽくなっていて、あの頃はまだ飲めなかった酒を酌み交わし、昔のように、他愛ないことをたくさん話した。
『なあ衛士。お前今どこにいるんだよ』
『……うーん、俺も分かんない。でも、多分遠いとこ』
『じゃあもう、会えないのか?』
『今こうして会ってるじゃん』
『そうじゃなくて……現実で』
ここは夢の中だ。夢の中でも、それが分かっていた。
『多分ね』
『なんだそれ。お前相変わらずいつも、大事な事はぐらかしやがって』
眉を寄せて怒ると、衛士は慌てたように手を合わせた。
『ごめんごめん、絶交は勘弁してください伊織様』
『断る。絶交だ』
そんなぁと衛士は情けない声を出して笑い、それから、少し真剣に言った。
『この先会えるか分かんないけど、遠い所にいるけど、ずっと傍にいるよ。見えなくても、伊織のこと、ずっと守るから』
『なんだよ遠い所にいるけど、傍にいるって。訳わかんねーよ。でも……』
ありがとな。
そう言って笑うと、衛士はとても幸せそうに笑った。
『やっぱり伊織は、笑顔が一番だよ』
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