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翌朝目覚めた時、ようやく激しい頭痛や嘔気が和らいでいた。まだ体は怠いが、起き上がれない程ではない。
ベランダに出て、朝焼けに照らされて、坂巻く街並みを一望する。
(なんか、綺麗だな……)
優しく頬を撫でる風の感触に、妙に〝生きている〟ことを実感して涙がこみ上げた。
あまり食欲はなかったが、朝食には狗飼が焼いてくれたパンを齧って食べた。
少し焦げていたけれど、自分で焼いたパンよりもなぜかずっと、美味しく感じた。
「色々、巻き込んで悪かったな。落ち着いたら今度、礼をさせてくれ。大したこと出来ないけど」
そう言って部屋を出ようとすると、狗飼がそれを引き止め、伊織の手にそっと鍵を握らせた。
「何これ?」
「前あなたに突き返された、俺の部屋の合い鍵です」
狗飼はにこやかに、だが少し恨みがましく言った。
「三笠さん。ここで一緒に暮らしましょうよ。しばらくと言わず、ずっと。ルームシェアってやつです」
何を言い出すかと思ったら、予想外のことで、伊織は驚いて目を見開いた。
「な、なんだよいきなり」
「言ったじゃないですか。俺、三笠さんのこと、本気で推してるんですよ。でも、今回のことで……隣に住んでても守れないなら、一緒に住むしかないなって思って」
「どういう発想なんだよ。やめとけよ。推しの私生活なんて、見てもいいこと一つもねーぞ。……つーか、一緒に暮らしたら、ファン辞められる気がする。俺、本性の性格悪いもん」
「辞めないですよ。素の三笠さんの方が、ちょっと口悪いけど可愛いし」
「さっきからお前、本気で言ってんのか?」
適当なこと言ってるんだろうとジトッと見つめると、狗飼は妙に真剣な顔で言った。
「本当は、〝弁えたファン〟でいたくて、ずっと遠くから見てようって思ってたんです。いおりんが男と同棲してるとか、地雷なんで。……でも俺は、いおりんのファンであると同時に、隣人だから……もうとっくに、ただのファンじゃない領域来てますし。いいですよね。親衛隊に格上げされても」
「格上げなのかそれは……」
と、いう訳で一緒に暮らしてくださいと改めて頭を下げて頼み込まれ、伊織は困惑に頬を赤くしながらも、やがて静かに首を横に振った。
「いい。俺がこっちの部屋来ちゃったら、マサ君寂しがるし。あの企画終わっても、あの部屋借りられるか聞いてみようと思ってるから」
「え……あの事故物件に今後も住むつもりなんですか?」
「うん。マサ君がいた方が逆に安心する」
すると狗飼は「幽霊に負けた」と、少しショックを受けた顔をして言った。
「大体この部屋、血まみれの女の霊出るんだろ」
そういえば昨日からずっと、狗飼のベッドで眠っていたことを思い出すと、ゾゾッとしながら言った。狗飼は少しの間沈黙し、やがて笑って言った。
「……ああそれ、〝いなくなった〟んです」
ニコリと笑って言った狗飼に、伊織は少しゾクッと背筋が冷えるのを感じた。
「……そ、そうだったのか」
「それから……若宮の霊も、いなくなったかもしれません。昨日から、見えないんですよ」
「え……?」
慌てて隣の自分の部屋へ行ってみると、これまでどこか薄暗かった室内がやけに明るく感じた。
「?」
廊下からリビングへとつながるドア。そこにいつもあった気配が、確かに感じられなくなっている。
部屋は明るくなったというのに、どこか空虚で、寂しく感じ、伊織はたまらず靴を脱ぎ捨ててドアに駆け寄った。
「なんだよマサ君。俺のこと助けるだけ助けて……そんなすぐ消えるなよ! お礼にファンサぐらい、させてくれよ」
そう言って、握手をするように宙に手を伸ばした。
「マサ君。ありがとう。あの時マサ君が助けてくれたおかげで、俺生きてるよ。アイドルは……色々あって、もう辞めようと思ってるけど……。この先歳取って、ますます顔とか体とか、変わってくのも怖いけど……でも、やっぱり、それも生きてるってことだから。今はただ、生きてて良かったって思ってる」
その時ふと、手にひんやりとした感触が、ほんの一瞬だけあった。
その遠慮がちな手の握り方には、覚えがあって、伊織は微かに眉を寄せて笑った。
若宮の霊だろうか。
見えないのだから、確かめるすべはないけれど、逆に言えば、どう捉えることも出来るのだ。
(きっとマサくんだ)
そう思い、伊織は差し出した自分の手を、宙でギュッと握りしめた。
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