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授業やらバイトやらを終えて家に帰ってくると、先に帰っていたらしい伊織が「よう」と手を挙げた。
ネットTVで行った引退会見帰りのままらしく、珍しく細身のスーツを着ていた。
「うわ、その恰好やばいですね」
「? ただのスーツだろ」
「いや、なんというか……」
エロい。というのはさすがに推しに浴びせて良い言葉ではないので口を噤む。
「尊いです」
「お前の趣味、全っ然分からねーけど、気に入ったならツーショット撮るか?」
「撮ります!」
伊織は相変わらず、ファンサービスが良い。
未だに狗飼がファンだということには半信半疑のようだが、それでもファン心理は理解してくれていて、時折こうしてツーショットを撮ってくれる。
ルームメイトで、ファンとアイドルという奇妙な関係だった。
極力生活空間は避け、一線を踏み越えないようにはしているが、ツーショットを撮るために自然と寄り添う体勢になると、下心が沸き上がりそうになる。
「ま、こういうのも今日でおしまいか」
スマホ画面を覗き込み、今撮ったばかりのツーショット画像を見ながら、どこか寂しそうに伊織が言った。
「……本当に、辞めるんですか? アイドル」
「辞めるよ。もうアラサーだしな」
「別にいいじゃないですか。何歳になってもアイドルやってても」
「それもそうだ。何歳になっても輝いてる奴はかっこいいよ。……でも俺、ガキの頃からずっとこの世界にいて、変わらずにやってきたから、そろそろ違うことやってみるのもアリかなってさ」
伊織は、妙にすっきりとした顔をしていた。卑屈になって、引け目を感じて辞めるという訳ではないようだ。
「と、言う訳で!」
伊織はガラッと自分の部屋としてあてがわれている寝室の扉を開いた。
「な、なんすかこれ……」
床の上には所せましとA〇zonやら家電量販店箱が並び、机の上には新しいパソコンと、動画配信者がよく使うリングライトが置かれていた。
「事務所辞めて、アイドルも引退したけど、これからは個人的に、動画配信をするんだ。もう〝いおりん〟じゃなくなるし、アイドルらしい配信じゃなくて……素も見せる。すげー叩かれるかもしれないけど、見たい奴だけ見てくれってコンセプトで……」
推しが、別の形で活動を続けてくれる。その事実に、狗飼は思わず天を仰ぎたくなるほど喜んだ。
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