さよなら、ジョー・フィッシュ

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 私は写真家になりたかった。  父の仕事がカメラ雑誌の関係ということもあり、仕事場に何度か遊びに行くうちに自然とそう思うようになっていたのだ。漠然としたものではあるが、いつかこんな風景の中を歩きたい、そんな夢が写真家を目指す基盤になっていたように思う。  私は短い彼の影を追いながら不思議な感触を抱いていた。  誰かに自分の夢を知られるのが恥ずかしくて嫌だったのに、何故今は嫌ではないのだろう。幼馴染みである西崎にすら話したことのない夢。家族の誰にも自らは語っていない夢。殆ど話しすらしたこともない相手だというのに。  私は少しだけ歩みを遅めた。足元のアスファルトを見つめながら、もう少しだけ、柏倉と話がしたいと思っていた。 「気分でも悪いの」  顔を上げると、柏倉が振り返っていた。 「いや、別に気分は悪くないよ」 「そう。あ・・・」  柏倉は小さく呟いて空を見上げた。釣られて顔を上げると、ポツリと一粒滴が頬に当たる。 「雨だ。あんなに晴れていたのに・・・」 「午後からは、いっとき雨が降るよ。天気予報を見なかったのかい」   私は赤面した。テレビはアニメがメインだし、新聞など手にも取らない。同じ年齢の少年とは思えないほど彼が大人に見え、自分が幼稚に見えた。 「本降りになりそうだな。ノーランくん、走るよ」 「え?」  私の 返事を待たずに、彼は走り出した。  私も彼を追って走る。  雨粒も徐々に増えてくる。  どのくらい走ったのだろうか、息を切らしながら、私たちは大きなマンションの庇に飛び込んだ。 「濡れ鼠だ」  柏倉は服の中に隠していた本を取り出して、濡れていないか確認する。 「大丈夫、本」 「うん。それより風邪をひきそうだ。中に入ろう」 「中って?」 「ここ、僕のマンション」  電子ロックのカードキーを取り出しながら、彼はさらりと言う。  私は再び呆気に取られた。  このマンションは高級官僚や芸能人が多く住む、高級マンションなのだ。何度もテレビで見たことがあるし、駆け込んだ瞬間にも胸が踊ったほどだ。到底、私たち一般の人間が住めるような所ではない。 「柏倉くんのお父さんて、何してるの?」 「さあ。よく知らない」  興味なさげにそう応えながら、彼はエレベーターの三十七階のボタンを押した。  一瞬身体が無重力を感じ、今度は圧力がかかる。  音もなく静かに、エレベーターは昇り始めた。  不思議だった。  殆ど口をきいたこともないクラスメイトの家に行くことも、彼が私を招き入れたことも。  身体が硬直しそうなほど緊張している。  でも、居心地は悪くなかった。他のクラスメイトへの優越感なのか、なんだか自分が選ばれた人間のような錯覚を起こしそうだった。  小さく電子音が鳴り、エレベーターが停まる。  やがてドアが開いたとき、私は異世界に足を踏み入れたと思った。  床は臙肥色の絨毯が敷き詰められ、歩くと柔らかい感触が伝わる。  通路の壁には上品な紋様が浮き彫られ、丸みを帯びた柱は昔見た神話の映画の世界を連想させた。その合間あいまに出窓が付けられ、明り取りが十分になされている。天井には蛍光灯はなく、嵌め殺しのライトが柔らかい暖色を灯していた。  観光客のようにきょろきょろとしている私に、既に突き当たりの玄関を開けている柏倉が手招きをする。  玄関に通されてから、私は感嘆の声をあげた。  果たして我が家の洋タンス変わらぬサイズの調度品らしきシューズボックスの上には、子供ながらにも高級品であると判る重厚さを醸し出した調度品が、優雅さを纏うように並べられている。  唖然としたまま靴を脱ぎ、普段なら揃えなどしないのにきちんと揃え、柔かい毛並みのマットに足を乗せる。 濡れているのを気にしながらも、柏倉に続いて螺旋状の短い階段を降りた。  そこはホールのようなリビングルームが広がり、テーブルや椅子、ソファにシャンデリアと・・・どれにしても日常からかけ離れた世界が、眼前に広がっていた。  何より一番驚いたのは、リビングルームの一番目立つ場所にグランドピアノが据えられていたことだった。 「これ、柏倉くんが弾くの?」 「いいや。ちょっと待ってて」  そう言い残して彼はリビングの奥へ消えて入った。  私は溜め息を何度も吐いた。  こんな所に住めたら、どんなにいいだろう。  いわゆる世間一般的な3LDKのマンションに住む私にとって、夢のような空間である。カメラを持って来ていたら、間違いなく撮り収めていただろう。  そんな夢現な気分でいるところに、柏倉がタオルを二本持って戻ってきた。 「これで拭いて。で、こっち」  私たちは廊下に出ると、突き当たりにある一室に入った。  その部屋の広さも尋常ではなかったが、先刻のリビングに比べるとまだ現実味がある。 「柏倉くんの部屋?」 「そう」   そう言って本を勉強机の上に置く。 「いいなあ、広くて。俺の部屋なんか、弟と共同だし、ベッドと机だけで一杯だもんな」 「適当にその辺に座ってて」  私の話には耳も貸さず、彼は服を着替え、さっさと本を読み始めた。  私は彼に話しかけるのを諦めることにした。  そして直ぐ目の前のソファに腰を掛けると、がさがさと頭を拭き、ぐるりと部屋を見渡した。  天井にはやはり嵌め殺しのライト。象牙色の壁には、カレンダーの一つも掛けられておらず、何処か味気ない。ベランダ側には柔らかそうなベッドがあり、その対面の、天井まである巨大な本棚にはぎっしりと本が並んでいる。私と弟の共同本棚とは違い、漫画など一冊もない。今自分が座っているソファの前のテーブルにも、数冊の本が積まれていた。  私はその中でも一番分厚い一冊を手に取り、中を開いた。  鉱石図鑑らしく、見たこともない奇麗な石や岩石がカラー写真で載っている。専門的な内容過ぎて全く理解できなかったが、写真を見るだけで私は満足だった。一ページずつ、じっくりと見ているうちに、私はいつしか他人の家であることも、柏倉の存在すらも忘れて本に没頭していた。  どれくらいの時間が経ったのか、本を閉じてから、私は我に返った。  ふとベランダの外を見ると、雨は止んでいる。  気が付かないうちに、柏倉が対面のソファに座っていて、私は驚いた。 「あ、ごめん、勝手に読んじゃって」 「いや、いいけど。面白かった、それ」  相変わらずの 無表情で彼は訊く。 「うん。こんな石があるんだって、びっくりした」 「じゃあ、あげるよ。その本」 「え?」  私は耳を疑った。  本を閉じたときに気付いていたが、大人でも逡巡するような値段が付いていたのだ。  そんな高価な本を、いとも簡単に他人にあげるとは。 「いいよ、だってこれ」 「僕はもう読んだから」 「でも、見たくなったら困るだろ?」 「困らないよ」  彼はそう言い切ると、腕時計を見て席を立った。 「雨も上がったし、服も乾いたみたいだから、送るよ」  言われて頭を触って見ると、すっかり乾いている。クラスメイトとはいえ、殆ど話した事も無い相手の家だと言うのに、随分と長居をしてしまったものだ。  私は慌てて立ち上がった。  大体雨宿りついでに家に上げてもらっただけで、彼の家に遊びに来たわけではないのだ。自分の無作法さにただ赤面するばかりで、私は礼もまともに言えずにいた。  柏倉はマンションの入り口まで見送ってくれた。通り雨だったのか、地面は既に乾き始めている。空を見上げると、いつもと変わらない薄紫色の空が広がっていた。  私は僅かに残る水溜まりを飛び避けると、振り向いてようやく彼に礼を告げた。 「あの・・・本、ありがとう。あとタオルも。長居しちゃって、ごめんな」 「別に」  相変わらず素っ気なく彼は応える。 「じゃあ、また明日」  私は手を振ってから背中を向けた。 「晴・ノーラン」  やけに畏まった口調で、柏倉が私を呼び止める。  何だかくすぐったい思いに駆られながら、私は振り返った。 「なに?」 「君は、あの石達を写真に撮ってみたいとは思わなかった?」 「それは思ったよ! でも・・・何処にあるのかなんて判らないし」 「僕が持って帰ってきてあげるから、撮ればいい」  私は目を見開いた。 「僕は、図鑑ではなく、いつかこの手であの石達に触れようと思っているんだ」 「え?」  ・・・だから図鑑はもう、要らないと? そう言いかけた時だった。 「 必ず考古学者になる」  柏倉はそう言って、未来を見つめる大きな瞳を細くして、柔かい笑みを浮かべた。  ・・・不思議と。  初めて見せる彼の笑顔に、私はさほど驚く事は無かった。  そして。  私もにっかりと笑い、大きく頷いた。  そしてそれは、最初で最後に見た、彼の笑顔だった。
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