夜半(よわ)の寝覚め

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 ―――今、君は何処に居る?  手にした古い色褪せた写真に投げ掛ける。  その投げ掛けに、当然ながら返事はどこからも帰って来ない。  集合写真の中に埋もれるように、その笑顔は小さく写っている。  生涯忘れえぬその笑顔は遥か昔、記憶の中だ。    気付けば君の背に近付いていた。  でも、追い越せなかったのは、君の背丈ではなく、その背中。  気付けば君よりも視力が落ちていた。  コンタクトは怖いと眼鏡を愛用していたけれど、今では不器用ともいえる共通点となっている。  気付けば君は僕の指標となっていた。  気付けば君の親とも言える齢を迎えた。  気付けば君を忘れないまま。  色褪せた写真をそっと、そして丁寧に胸元に置く。  今、君は何処に居る?  想い出に浸るかのように、心の中でまたそっと呟いた。 * * * * * 「もう二十年になります。財力的にも体力的も含め限界なので、と、残されたお身内の方から貴女にご連絡をして欲しいと依頼されましてね」  グレーのスーツを纏い、如何にも四角四面です私、と言わんばかりの男がまだ熱そうなコーヒーを啜りながら言う。  平日のランチタイムのファミレスで、コーヒーだけが並ぶテーブルというのも、なかなか見る事のない光景だろう。  向かい合うテーブルの左隅には互いの名刺が置かれているが、所謂『先生』と呼ばれる職種である事は名刺を見ずとも胸元に鈍く光るバッジで理解できる。  私は素っ気無くそうですか、とだけ答えた。 「お身内の方は、お逢いになられるかはお任せしますとの事で。・・・お逢いになられますか?」 「いえ、申し訳ありませんが」 「そうですか」  と、男は首を傾げる。「お身内の方は、恋人ではないけれど親友だったようですと・・・」 「いえ」  私は男の言葉を遮り大きく頭を振った。「彼の親族からどのように聞いていらっしゃるのかは解りませんが、せいぜい顔見知りといったところです」 「え」 「寧ろ一時は多少、迷惑を被っていたこともあるので。申し訳ありませんが」 「そうですか・・・承知しました。お時間を頂き、ありがとうございました」  私が頭を下げると、四角四面の男もまた多少困惑しつつも頭を下げ、それでは、と席を立った。  ―――この二十年、記憶の抽斗に鍵を掛けてきたというのに。  何故今になって、と、私は些か戦慄を覚えた。  彼との出逢いは高校生一年の春。  たまたまクラスが同じだっただけで、会話もほぼしていないに等しい。  学生時代は私は幼少期に家族を事故で失い、祖母の下で生活をしていた。学費などに負担をかけまいとアルバイトと勉学に勤しんでいた為、中学時代から同校へ進学した友人以外とは、そもそも交流を持っていなかた。  そんな中、唐突に一度だけ「僕たち似てるよね」と声を掛けられた事があった。  そうだ、確か・・・私と色違いのフレームの眼鏡を掛けてきた日だった。  似てるかどうかなど私には解らない。そもそも声を掛けられるまで、名前すら空覚えだったというのに。  それからだ。私物が行方不明になったり、街中やバイト先で不意に視線を感じたり、奇妙な事が身の回りで起きるようになったのは。  夏休みとはいえバイトに勤しむ私にとって、貴重かつ少ない時間を割いて調べた結果、あっさりと彼の奇行だと判明した。  呼び出して二人きりになるのは避けようと夏休み中は我慢し、二学期に入って直ぐに私は教室前の廊下で彼を呼び止めた。付き纏い行為を辞めてくれと直談判したのだ。  彼は己の行為が迷惑になっている事が全く理解が出来ない様子で、「迷惑掛けた事は一度もない!」と私に詰め寄った。  そして、私は後退去る。  運が悪い事に私は階段を踏み外し、そのまま落下した。後頭部を強打した上に肩を骨折し、一ヶ月もの間入院してしまったのだった。  退院後に登校すると、彼の姿は教室に無かった。  私の不注意による事故と処理が成されていた為、保護者同士で何か話し合いが持たれた様子も無かった。故に彼が居なくなった理由が解らない。  だからといって態々クラスメイトに尋ねるのも面倒で、私は記憶から抹消するよう努め―――現在に至っていた。  私は身震いをした。  二十年という時を経て現れた過去の残像への薄ら寒さに。  そして、もうこれで二度と記憶の蓋を抉じ開けられる事もないのだ、という安堵に。  私はテーブルの隅に置いた名刺を鞄に入れ、洗面所に向かう。  化粧が落ちるのも気に止めずバシャリと顔を洗うと、新しいコンタクトレンズを取り出し着け替えた。そして、足早に事務所へと戻ると、受け取った名刺をシュレッダーに掛け、日常で上書きを始めた。 * * * * * 「ねえ、508号室の患者さんの処置、今月末だっけ」 「あー・・・親御さん、意識を取り戻す事も無いのならって、ね」 「まあそうなるよねえ。高校の時に前触れもなくいきなり自殺未遂したんだっけ?」 「みたいね。何でも友達を殺してしまったとか、遺書があったらしいけど・・・骨折か何かで入院してただけらしいね、その人。この前弁護士さんか何か来て、その人と連絡取ったとか」 「そうなんだ。真相も知らないままってのも何か可哀想だね・・・その人が逢いに来てくれたら意識取り戻すとか無いのかな」 「何そのドラマ展開」 「だよねえ」 「そもそも断られたらしいよ?」 「まあ、色々事情ありそうだもんね」  まだ若さを保つ看護士二人が、休憩室で缶ジュースを飲みながら雑談を交し合っていると、別の看護士が現れる。 「ほら貴女達もう時間過ぎてるわよ? 無駄口叩いてないで仕事しなさい」 「あちゃ。婦長にだけは内緒で宜しく、先輩」  二人が揃って肩を竦めるようにしながらそう言うと、先輩看護士は全く、と軽く息を吐く。そして、病棟のナースステーションに戻る途中、508号室に掲げられたプレートを見上げ、不思議そうに首を傾げた。  この部屋の患者が意識を手放してもう二十年。  自発呼吸もままならない植物状態の中、何故か指先で摘んだまま胸元に置かれている写真を引き抜く事が出来無い。  恐らくは筋肉の硬直に因るものだろうが、まるで意識があるかのように手放そうとしないのだ。  その写真は入学時に撮ったであろう、クラス写真。  大切な友人を傷付け苛み自殺に至ったとの事だが―――そんなにも大切な友人であるなら、一緒に撮った写真の一枚もあるだろうに。  まあ、人それぞれの事情や想いもあるのだろうが。  先輩看護士はもう一度息を吐いた。 * * * * *  ―――今、君は何処に居る?  あの時眼鏡が割れてしまって、きっと困ってるだろうから、僕の眼鏡を渡したいんだ。君の視力ではきっと世界の鮮やかさが失われているだろうから。  僕は漸く君への旅に出られるようだ。  君の居る世界は、きっと美しい。  写真なんてなくても、君の笑顔を目標に僕は何処迄も歩いていく。  きっと探し出せる―――僕なら、君を。  処置を施す有る種の喧騒を呈する中、先輩と呼ばれた看護士は、胸元に在る写真がハラリと落ちるのを見た。  刹那、言いようの無い切なさが湧く。  彼の過ぎる純粋な想いは、我々が未だ知らぬ世界でも続いていくのだろう。  医師が見守る中、モニタに光るランプが平行線を引いた。  ・・・一瞬、動く事などない彼の指が、微かに動いた気がした―――。 END  
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