第21話 そばにいて欲しい人

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第21話 そばにいて欲しい人

 条件反射のようにエアコンをつけ、ソファーに崩れ落ちた。食材を買ってきたものの、何もする気が起きない。PCのチェックもしなければならないけど、それすら億劫だった。  もうすっかり日は落ちて外は真っ暗だ。風の音がいつも以上に耳を突くのは気持ちが落ち込んでるせいだろうか。  ――――お腹空いた。  親が死んでも腹が減る。と言ったのは誰だろう。こんな時でもお腹がすくもんだ。僕は晴れない気持ちを引き摺ったまま、キッチンに向かった。 『ピンポン♪』  その時だ、玄関のチャイムが鳴った。心臓を握られたくらい驚いてしまった。体全体がびくんと跳ねたよ。まさかもう、会社からパソコンを取りに来たんじゃ……。 「はい……」 「俺だ。ハチ、どうしてる?」 「先輩っ」  恐る恐るインターホンに出た僕の耳に飛び込んできたのは、ずっと聞きたいと思っていた先輩の声だった。僕は馬鹿みたいに玄関まで走った。 「先輩……」  ドアを開けたら、鍋を持った先輩がいた。なんだろう、その姿を見た途端、僕は泣きそうになった。 「どうした? 入るぞ」 「はい、すみません」  先輩は勝手知ったる感じで、キッチンへと進んだ。大体僕が先輩の家にお邪魔するんだけど、こんなふうに来てくれることもある。でも、お鍋を持ってきたのは初めてだ。 「でも、どうしたんですか。何も連絡なかっ……」  連絡なんかできるはずもない。先輩が帰ったら、僕の方から行こうと思ってたんだ。もう帰宅してるなら、さっさと行けばよかった。 「今日な、会社に電話あった」 「え……まさか、研究所からですか?」  もう先輩に連絡が? こんなに早く動くなんて思いも寄らなかった。 「ああ」 「す、すみません。こんなご迷惑かけてしまって……」 「別に? おまえのせいじゃないだろう。でも、スマホにメールしても返信ないし、こりゃまずいことになってると思ってさ」 「それで、来てくれたんですか?」  キッチンで鍋を暖めている先輩に僕はもう少しで抱きつきそうになった。それくらい感動したんだ。あの夏の日、病院に駆けつけてくれた時と同じくらい。 「シチュー作ったから食べようぜ」  先輩は肯定も否定もせず、照れくさそうに笑うと温め直したシチューを皿に盛ってくれた。 「はい……。あ、そうだ。ちょうどパン買ってきてたんです」  どんなに部屋を暖めても寒かった体と心があっという間に温まった。僕は今日、職場であったことを逐一先輩に話した。 「そうかあ。自宅謹慎とはつらいな。ま、いわれもないことなんだ。堂々と休めばいいよ。俺も明日は在宅勤務だから、話し相手くらいにはなるぜ」  こんなふうに疑われて一人部屋にいるのは、精神衛生上良くないよな。先輩はそれで気を使ってくれたんだろう。それにさっき、朝イチに監査部の人がパソコン取りに来るとショートメールで連絡が来た。ネットからも隔絶されると気が滅入っていたんだ。 「ありがとうございます。助かります」 「彼女には連絡したのか? まあ、本当のことは言えないだろうけど……」 「職場から電話しました。特急の仕事で缶詰になるから連絡出来ないって。でも、彼女のところにも、先輩みたいに監査部からコンタクト来てるかも」 「ああ、それはあるだろうな。彼女の場合は、俺よりも厳しいな」 「やっぱりそう思いますか」 「機密漏洩があったのはつい最近だろ? てことは、最近付き合いが始まった相手が怪しいと思ってるはずだ」  そうなんだ。僕が彼女のことを少しだけ疑っているのはそのことなんだ。  監査部からは誰かにパスワードを教えなかったかとかしつこく聞かれた。そんな話は一切してないし、彼女が僕のパソコンやスマホを触った記憶もない。だから、大丈夫だとは思ってるんだけど。 「そんな暗い顔するな。もしそうなら、少しでも思い当たることがあるってもんだ。そういうのないだろ?」  そう言われて、僕は真剣に考える。彼女とはまだ、数えるほどしかデートしていない。それを一つ一つ思い出す。 「な……いです」 「だろ? じゃあ心配してても仕方ない。ネットのない生活もたまにはいいもんだ。昔のゲームでもしてたら? 本読むのもいいぞ」  先輩が柔らかい笑顔で僕を見ている。切れ長の双眸に黒目勝ちな瞳。不思議と不安な気持ちが溶けて消えていく。階段を昇って帰って来た時は、その先に首吊りの縄がぶら下がってるような気分だったのに。 「はい……そうですね。そうします」  先輩がいてくれて良かった。僕は涙をごまかすために、鼻をすすりながら何度も頷いた。
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