第8話 おでこにキス

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第8話 おでこにキス

 初デート、まずは軽くお茶だ。ランチでも良かったけど、土曜日半日出勤になってしまったので無難にお茶にした。混んでる時間のランチだと落ち着かない。  僕は職場で軽く食べてから、約束のカフェに向かった。午後とは言えまだ寒い。そう言えばもうすぐバレンタインだなあ。急すぎるから、今年は何も無しかも。職場でも儀礼禁止のお触れが出てから、本命以外はもらえない。つまりもらえない。 「八城さんは、どんな研究されてるんですか?」  お茶を飲みながら、差し障りのない話をする。趣味なんかは合コンで既にしてるから、やっぱりその話題出るよね。 「ああ、今はこれと言っては。先輩研究者のお手伝いだよ。データ収集とか、計算とか」 「そうなんだ。すごいー!」  いや、何が凄いのか。それ以上は話せないので、僕は曖昧な笑顔で躱す。このあと、なんて言って話題を変えたらいいのか、いつもすごく悩む。  五代さんに言わせると、ここで上手く躱さないと後々禍根を残すらしい。退屈のレッテルを貼られるとか、そういうことだろうか。 「あんまり仕事の話、出来ないんだ。約束すっぽかすこともあるのに、いつも申し訳なくてさ。ごめんね」  今日はあまり作らずド直球を選択した。僕の少ない経験上、これが一番リアクションがいいように思うんだ。 「ああ、合コンで他の方も言ってました。だからすぐフラれるって」  誰が言ってたんだよ。でもそうか、みんな同じ悩みを持つ者同士なんだな。 「菜々美さんは今、忙しいの? 卒業旅行のシーズンだよね」  ロングヘアの吉田菜々美さんは、旅行会社のカウンター業務をしている。 「今時の学生さんは、旅行会社なんかに来ないですよ。器用にネットを駆使して自分なりの旅行をデザインするんです。今は、お花見に向けてのバスツアーとか、春休みの家族旅行がメインかな」  それからしばらく、旅行会社あるあるの面白い話を聞いた。色んな客がいるもんだ。話し上手な彼女のお陰もあって雰囲気も俄然良くなった。今回は成功したみたいでホッとした。  菜々美さんとは波長が合うというか、一緒にいて緊張しすぎることもなく楽しく過ごせた。話も面白いし、さすが窓口業務を任されているだけあって頭の回転もいい。僕らはそのままお洒落な居酒屋に足を運ぶことになった。 「明日は仕事だから、もう帰るね。土日休みはひと月に一回ぐらいしかなくて」 「そうか、そうだよね。じゃあ、僕もこれからはお休みを工夫するかな。有休はまだあまりないけど、土日出勤がしょっちゅうなので代休があるんだ」 「ほんとに? やった」 「また……会ってくれるよね」  電車の駅までの道すがら、勇気をもって僕は尋ねてみた。感触で言えば十分だ。でも、まだ次の予定を決めていない。 「もちろん。良かった。次のデートの約束してなかったから、心配してた」  話しているうちに敬語からタメ口になった。来週会う約束をして、いよいよさよならの時間だ。  ――――どうしよう。まだ初デートだし、ここは手でも握ってさよならの方がいいかな。 「じゃあ……木曜日ね」  僕は彼女の瞳を覗き込む。これは、待っているのか、それとも。いや、ここはやっぱりっ。 「おやすみ」  僕は彼女のおでこに軽くキスをした。意気地のない僕にはこれが精一杯。これでもどこかの舞台から飛び降りるくらいの決心はした。 「おやすみ」  お酒のせいだけでもないだろう。彼女の頬が朱色に染まっている。あの濃厚なキスはまだまだお預けだ。  つり革を持ちながら、僕は思わずにやけてしまう。楽しいデートだったな。幸先のいいスタートを切れたのが何より嬉しかった。  ――――それにしても、あんな濃厚なキス、先輩よく僕にしたな。好きになるかもって思ってる彼女にすら、躊躇するのに。  いつか彼女にもそんなキスをするときがくる。いやいや、次のデートには十分考えられる、高校生じゃないんだから。だけど、なぜかそのシーンをイメージできなかった。
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