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序章
ロンドンから南西に20キロほど下ると、有名なテニス大会が行われるわが町、ウィンブルドンがある。20年ほど前から始まったこの大会には、全英から選手がこぞってやってくる。整備されつつある汽車に乗り、たくさんの観客も詰めかけるようになっていた。
そろそろ20世紀の幕開けが迫る世紀末。英国の田舎町で、僕は診療所を開業している。ロンドンの大学で医学を学び故郷に戻ってきた、今年26歳になる健全な青年医師だ。
「イーサン先生、レオ・ブラウン男爵が有罪になったそうですよ」
看護師のジュリーが僕にそう声をかける。いつものロングスカートに白いいエプロン姿。手には新聞を持っている。僕の前に読んでしまうのはいつものことだ。
「まあ、そうだろうね。旗色悪かったから。貴族様でも出過ぎると打たれるということだよ」
「そんな、年寄りみたいなこと言って。先生、まだ二十代じゃないですか。革新的な考え方はされないんですか?」
「え? いや、新しいものは好きだけど。男色はどうかな。僕は女性がいいよ」
「そうですか? では、さっさと前に進まないと。マリアお嬢様も早くブロポーズして欲しいんじゃないですか?」
うっ。藪蛇してしまったようだ。僕は長く伸ばした髪を後ろで縛り、丸い眼鏡をかける。実際僕は大学を卒業して間もない青二才だ。父がここにグリフィス診療所を残してくれたお陰で医者を営めるが、まだまだ若造の粋を出ない。
小さな町の町医者。限られた世界の中で、限られた人々に囲まれ、彼らの健康を維持する。大きな野望を持たない僕は、この世界に十分満足している。だが、結婚となるとまた別の話だ。
看護師ジュリーの言ったマリアとは、幼馴染のマリアのことだ。僕のプロポーズを待っているかどうかは知らないが、この街の大地主であり一番の富豪、ホワイト家の次女。
幼馴染と言っても僕よりも五歳年下の紛れもないお嬢様だ。僕とは釣り合いが取れないだろう。恋愛感情は持ったこともないし、僕は僕が好きだと思う人と添い遂げる。そこは譲らないでいたい。
「先生、患者さんいらっしゃいました」
「うん。診療はいつでも始められるよ。入ってもらって」
ジュリーが置いていった新聞を斜め読む。レオ・ブラウン男爵、貴族出身でありながら稀代の音楽家、加えてプレーボーイである。
大層な二枚目と聞いているが、新聞の写真はそれほどでもない。どっちかというと僕のほうが顎のあたりがシュッとしてイイ男じゃないかな。とか思って顎を右手でさする。
彼は男にも女にもモテたようで、有罪の罪状は男色だ。街にはガス灯が光り輝き、蒸気機関車が凄いスピードで走り抜ける。そんな時代でも、愛し合うのは男と女と定められていた。
僕はあいにくどちらの性にもモテたことはないが、できれば女性に思われたいと思う凡人だ。レオ・ブラウンはさる高貴な子息に手を出した。それが公になり、父親に訴えられたようだ。
――――貧乏男爵から成りあがった……派手な奴だったからな。やっかみもあったんだろう。
さて、一人目の患者さんが診察室に入って来た。今日も悪くない一日でありますように。
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