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「看護師の方ですか。今、先生にもお伺いしていたのですが、三週間ほど前に、ここに怪我をした若者は来なかったですか?」
「はあ。今、そこで少し耳に入って来ましたけど……」
僕は思わず目を瞑った。ここで何か口を挟めばかえっておかしなことになる。忘れていたことにするか。いや、でも彼は今ここにいるのだ。
「そんな人は来ていないですよ」
――――えっ? 今、なんて?
僕はジュリー看護師を見上げた。彼女は僕の方を見ることなく、警部に向かってはっきりと言った。いつもの紺色の外套にマフラーをきっちり巻き、毅然と立っている。
「ここにいらっしゃる患者さんは、みなウィンブルドンに住む方ばかりです。私の良く知る、町人の」
僕は驚きを隠せなかった、と同時に疑問が沸き起こる。何故、ジュリーは嘘をついたのだろう。何故、スコットランドヤードの刑事たちに本当のことを言わなかったのだろう。
「そうですか。お二人がそう言われるのならそうなのでしょう。わかりました。おい、コール、帰ろう」
不服そうな顔をしているコールにキャンベル警部は声をかけた。コール警部補は渋々といった表情で立ち上がり、先行する警部に続いて玄関を出ていった。
馬の鼻息が聞こえ、それが蹄の音に変わっていく。一頭立て、スコットランドヤードの馬車が去って行く姿を僕らは並んで見送った。
「あの、ジュリー、さん、どうして……」
馬車が見えなくなって、僕はそう尋ねた。何故か『さん』付けして。
「どうして、先生は本当のことをおっしゃらなかったんですか?」
だが逆に聞かれた。
「それは……ジョ、ジョシュアは僕の……」
僕の……そう言いかけた僕の口元をジュリーが食い入るように見ている。次の言葉を待っているのだ。
「僕の弟みたいなものだから。彼らに連れて行かれたら、どうなるかわからないじゃないか。もう少し、様子をみたくて」
「そうですか」
安堵なのか、不満なのか、ジュリーは僕にも見当のつかない複雑な表情でため息をついた。
「私は、そこで話を聞いておりました。もし、件の少年が彼だったとしても、悪いことはしていないようでしたし……」
「ああ、そうだね、友達を助けたようだし」
「男娼である以外は、です」
僕はハッとした。そうだ。ジョシュアは『男娼』の友達を助けたのだ。警部たちも言っていた。あのままロンドンの裏道にいたら、彼らを仕切っている連中に何をされるかわからないと。
「でも、ジョシュアがそうと決まったわけではない」
とりあえずそう言ってみた。そんなこと、僕はもう1ミリも信じていなかったけれど。
「とにかく……今回は良くても、また来るかもしれませんよ。それに、ウィンブルドンの住人に聞けば、私達がウソをついたのなんて、すぐわかってしまう……。一体次はどう誤魔化すおつもりですか?」
ジュリーの言うことは一々尤もだ。僕は何も言えなくて俯いてしまった。
「先生、ジョシュアときちんと話してください。私はずっと先生が心配でした。弟というのならば、兄としての責任を見せてください」
「わかりました」
僕は頭を下げる。ジュリーはコートを脱いでハンガーに掛けると、診察室に入っていく。僕はその後姿を追いかけるように、
「あの、ありがとう」
そう言って再び頭を下げた。
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