第九章

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 僕は警部の策略に乗っただけではない。こちらも十分にスコットランドヤードの力を利用するつもりだ。  僕らがフランスに渡ることを警部には言わなかった。そのうえで、僕らとスコットランドヤードは協力体制を敷いた。  決行はウィンブルドンテニス大会の決勝当日。多くの人がこの田舎町を目指す日だ。瞬間的にこの街の人口は普段の3倍は膨れ上がる。 「行くのね」 「ああ、色々ありがとう。心苦しいが、後のことは……」  僕はマリアとジュリーだけには計画のことを話していた。マリアは僕たちにフランスでの滞在先まで用意してくれた。 「この手紙を持っていけば、当座のことは面倒を見てくれるはずよ」 「何から何まで申し訳ない」 「いいのよ。暇だから」  そう言ってにこやかに笑う。 「私もね。少し変わろうと思うのよ」 「変わるって、どういうことだい?」 「女性の権利について勉強しているの。結婚だけが幸せじゃないわ」  僕はそんなマリアに何も言えなかった。これは僕のせいなのか。それでもいつも以上にきらきらと双眸を輝かせる彼女は眩しく、なんだかとても嬉しかった。 「ジョシュア、元気でね。あなたの詩集が出たら、必ず買うわ」 「マリア、ありがと。いつかフランスに来て。またお菓子を作ってあげるよ」  マリアは笑顔で僕たちを見送ってくれた。彼女の雰囲気が変わったのには理由があったのだと改めて思う。  コルセットを外し、鳥かごのような型でスカートも膨らませない。そんな女性がこれから増えていくのかもしれない。  僕らは最小限の荷物を持って、ロンドンへと向かう。夏だ。白いシャツにアイボリーのズボン、サスペンダーをつけ、藁帽子を被った。長い髪をいつものように束ね、丸い眼鏡をかける。  ジョシュアも同じような出で立ち、金髪を閉じ込めるようにして帽子を深く被っている。 「行こうか」 「ああ。ドキドキするな」 「危険だから。絶対に離れるなよ」 「同じことをイーサンに言うよ。俺のほうがすばしっこいからね」  片目を瞑り、ジョシュアが言う。ウィンブルドンの駅は試合観戦の人々でごった返している。  僕らは彼らとは全く逆方向へと進んでいく。歓声が遠くウィンブルドンの丘から聞こえてくる。試合が始まったのだろうか。  僕は振り向きもせず、ロンドン行きの汽車に乗った。
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