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僕は警部の策略に乗っただけではない。こちらも十分にスコットランドヤードの力を利用するつもりだ。
僕らがフランスに渡ることを警部には言わなかった。そのうえで、僕らとスコットランドヤードは協力体制を敷いた。
決行はウィンブルドンテニス大会の決勝当日。多くの人がこの田舎町を目指す日だ。瞬間的にこの街の人口は普段の3倍は膨れ上がる。
「行くのね」
「ああ、色々ありがとう。心苦しいが、後のことは……」
僕はマリアとジュリーだけには計画のことを話していた。マリアは僕たちにフランスでの滞在先まで用意してくれた。
「この手紙を持っていけば、当座のことは面倒を見てくれるはずよ」
「何から何まで申し訳ない」
「いいのよ。暇だから」
そう言ってにこやかに笑う。
「私もね。少し変わろうと思うのよ」
「変わるって、どういうことだい?」
「女性の権利について勉強しているの。結婚だけが幸せじゃないわ」
僕はそんなマリアに何も言えなかった。これは僕のせいなのか。それでもいつも以上にきらきらと双眸を輝かせる彼女は眩しく、なんだかとても嬉しかった。
「ジョシュア、元気でね。あなたの詩集が出たら、必ず買うわ」
「マリア、ありがと。いつかフランスに来て。またお菓子を作ってあげるよ」
マリアは笑顔で僕たちを見送ってくれた。彼女の雰囲気が変わったのには理由があったのだと改めて思う。
コルセットを外し、鳥かごのような型でスカートも膨らませない。そんな女性がこれから増えていくのかもしれない。
僕らは最小限の荷物を持って、ロンドンへと向かう。夏だ。白いシャツにアイボリーのズボン、サスペンダーをつけ、藁帽子を被った。長い髪をいつものように束ね、丸い眼鏡をかける。
ジョシュアも同じような出で立ち、金髪を閉じ込めるようにして帽子を深く被っている。
「行こうか」
「ああ。ドキドキするな」
「危険だから。絶対に離れるなよ」
「同じことをイーサンに言うよ。俺のほうがすばしっこいからね」
片目を瞑り、ジョシュアが言う。ウィンブルドンの駅は試合観戦の人々でごった返している。
僕らは彼らとは全く逆方向へと進んでいく。歓声が遠くウィンブルドンの丘から聞こえてくる。試合が始まったのだろうか。
僕は振り向きもせず、ロンドン行きの汽車に乗った。
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