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母と子の願い
「まさか、こんなことになるなんて」
ホテルの窓から眼下に広がる華やかな夜景を眺めながら、母は腕を組んだ。2人がいる部屋は、落ち着いた雰囲気の広めのツインルーム。
火事の起こったすぐ下の階ということで、今日は部屋には入れない。そうマンションの管理会社から連絡があったのだ。放水の水が下の部屋に漏れているから、しばらくは住める状態ではないだろう――という残念なお知らせを添えて。
更は、家からほど近いビジネスホテルに予約を入れようとしたのだが、そんなルームサービスもない宿は嫌だと母に反対され、格式高そうな老舗のホテルに泊まることになってしまった。
「今日は更の卒業式だから、できるだけ早く帰ろうと仕事を切り上げたのに、まさか住む家がなくなるとはね」
ため息まじりに髪をかきあげ、母はようやく窓から目を離した。
耳の下で美しく切り揃えられたボブヘアーと濃紺の仕立てのいいパンツスーツを着こなすその姿は、いかにもキャリアウーマンといった感じだ。厚めの唇とキメの細かい肌は、20代と言っても通じるほど若々しかった。
17歳の子どもがいる――なんて言っても、誰も信じないんじゃないかな。母は自分とはあまり似ていなかった。
じゃあ、自分は父に似ているのだろうか。黒目がちな瞳を伏せて、更は考えてみたけれど、父には一度も会ったことがないから、それも分からない。
「私だって、びっくりだよ。まさか火事になるなんて」
出火は台所だったらしい。ユリさんは揚げ物をしている間に旦那さんから電話がかかってきて。気づいたら鍋から火があがっていたという。
「私は気が動転しちゃって……ほんとにごめんなさい」
そう何度も謝罪の言葉を口にしたユリと連絡先を交換して別れたのだった。
また、改めてぜひお詫びをさせて欲しい――と懇願されてしまった。
「まあ、被害が少なくて、よかったじゃない。怪我人もいなかったんでしょう?」
「そうみたい」
「不幸中の幸いじゃない」
サバサバした母らしい意見だった。母は後ろを振り向かないし、決断も早い。
「まあ、済んだことは置いといて、今日は更に大事な話があったのよ、2つね」
「大事? 何?」
嫌な予感がした。こんな風に前置きするのは、決まって都合の悪いことを言う時だ。更はあからさまに渋い顔になった。
「今日、住むところがなくなったんだから、迷うことはなくなったわね」
「え、どういうこと?」
更はもう疲れがピークに達していた。喉が渇くし、かなり眠たい。不機嫌さを隠そうともせず尋ねた。
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