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眉根をひそめた銀狐に、清良子は食い下がる。
「そうしたらずっと一緒にいられるのでしょ? きよらこは、いけにえだから、かぞくはいなかったけど、村の子たちには、みんないたの。いつもいっしょにいたのよ」
胸にすがりついてくる、震える小さな体。
銀狐は急に恐ろしくなった。
慌てて清良子の首根っこを掴み、自分から引き剥がした。
俺は、これを傍に置けば、弱くなる。
獣の本性で直感し、その日のうちに清良子を現世へ還した。
「忘れろ。俺もおまえのことなど忘れる」
ひりつく後ろめたさを誤魔化すように、名も知らぬ、光る紫の花一輪を、柔い手のひらに握らせた。
そうして銀狐は、実際すぐに忘れたのだ。
記憶は留め置けば腐って重たくなる。千年の妖は忘れるのが得意だ。記憶の大海へ、足で蹴って流し放してしまえば、それでよかった。
※
「きよらこは、それでも覚えていたのだな」
光放つ紫苑の花畑に降り立ち、銀狐はあの時と同じように胡坐をかいて座った。
紫苑の光が、ぽ、ぽ、と生まれては、夜風に流されていく。
だが茎を掻き分け、顔を突き出して喜ぶ幼子は現れない。
そうとも、ここはあの二人きりの静かな世界ではなく、喧しい現世の花畑だ。背中に半鐘の音が響き渡っている。
一輪を手折り、光を吹き散らしてみる。
この花は、現世と幽世の境が曖昧に溶けるこの一日かぎり、離れぬる人への想いを吐いて届けるのだ。
「……あいつめ。この身につけた紫苑の名は、見事に忘れた俺への当てつけか」
あの後、清良子がどう生きてきたのか、聞いてもおらぬ。
だが土産に持たせた一輪きりの紫苑を、大事に増やして花畑に育てたのだ。
銀狐は、揺れる花々を、その花々が吐く光の粒を眺める。
幾年の慕情を見せつけられるようだ。
清良子。おまえという人間は身勝手だ。短すぎる生を針に変え、俺の魂にそれを突き立てる。逃げて忘れれば思い出させ、そのくせおまえは勝手に生ききって、妖に喰われて骨になるのだろう。
だが俺は、その後もずっとずっと遺るのだ。胸に抜けない針を立てられたまま、この魂を命がけの糸で縛られたまま、ずっと独りだ。こんな恐ろしいことが他にあるか?
……愛しいと想う心など、妖には重すぎる。
おまえはそれを知らない。なんと残酷な女子だ。
「いたぞ、銀狐だ!」
怒鳴る声に、花房から一斉に光の粒が舞い上がった。
花茎を踏みにじって軍靴の音が近づいてくる。
銀狐は紫苑一輪を手に、その場にゆらりと立ち上がった。
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