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プロローグ
「俺は今、何をしようとしてたんだっけ」
俺は〝何か〟を忘れた。
最初はよくあるド忘れだと思った。けれど時間が経つにつれてド忘れではなくて記憶障害だと気づくと、心にも穴が空いているような気がして、想いが欠落していることにも気づいた。
俺にとって〝何か〟はとても大切な記憶と想いであり、さらに言えば日々を生きていく希望そのものだったのかもしれない。だからこそ俺は〝何か〟をなくしたことに気づけたのだろう。
しかし気づいてしまったから、俺はその喪失感に耐えることができなかった。
結果、俺――鈴上夜人はたった今、自殺をするため、学校の屋上から飛び降りたのだった。
死ぬのは怖かった。
眼下の底では闇が口を開けて待っている。身体は地面と重力に噛み潰されてしまうだろう。
俺は最期にもう一度、失った〝何か〟を思い出そうと試みた。
今日一日、学校や街のいろいろな場所を巡り、そこで思い出そうとしては失敗した。再び学校に戻ってきた理由は屋上から飛び降り自殺をするため。死の間際なら人間の生存本能、いわゆる走馬灯がよぎって思い出せるのではないかと期待した。
だが、無理だった。もうじき死ぬとわかっていて、文字通り死ぬ気で思い出そうとしているのに、俺は何も思い出せなかった。
悔しいけど仕方がないのだろう。そんな楽観的な思考ができるのは、もうじき〝何か〟を失った苦しさから開放されるからだ。もう助からないので、俺は死を受け入れるしかないと腹を括った。
ふと考える。仮に飛び降り自殺をしたことで〝何か〟を思い出せたとして、俺はそのあとどう助かるつもりだったのか。自分の無計画ぶりに呆れてしまう。
一瞬が何秒にも何分にも感じられる落下の最中、雲一つない夜空にそこだけぽっかり切り抜かれたような美しい満月を見た。白貌の輝きは、まるで鏡を見ているみたいだった。
「ちょっと待ってーーーっ!!」
それは夜を裂く流星のような速さだった。
満月から落ちてきたみたい。
いったい誰が想像できるだろう。
箒に乗って飛んでいる女の子が、俺に向けて必死に腕を伸ばしているなんて――。
「うわ……う、ぐは……っ!」
(何がどうなっている? いやそれより、息が……っ!)
飛び降りてからすでに、俺は学校の校舎の半分あたりまで落下していた。だというのに俺は女の子に制服の襟首を掴まれて、こんな空中で首を絞められている。まるで罠に掛かって宙吊りにされた兎のように、じたばた宙に浮いている。
「ぐ……ぐる、じい……」
「暴れるな! ただでさえ重たくて肩と腕の関節が外れそうなんだから!」
なんて理不尽な言い分なんだろう。俺は首を吊られて窒息寸前なんだぞ。
「頼む……、一回、離して、くれ……っ」
「何言ってんだ! 今離したら、君そのまま落ちて死んじゃうから!」
「このままでも、十分……死ねると思う……っ!」
むしろ高さは校舎の三階あたりなので、ここから落としてくれたほうがまだ助かりそうなんだけど……!
「ちょっと……、暴れるなって言ってんだろおおおっ!」
突如、俺の首を支点にして身体がぐるりと回転した。その回転数、実に五回。それも猛スピードでぐわんぐわん。やばい、意識飛ぶ――――直前に、えーいっと掛け声がかすかに聞こえた。その瞬間、俺は思いっきり校舎に投げ飛ばされた。ハンマー投げと同じ要領で遠心力を活用した、それはそれは見事な投擲っぷり。
そのまま窓硝子にぱりーんと命中。硬い物に身体を散々打ち付けて、ぼろ雑巾のようになりながら倒れ込んだ。
(くそ……ここは、教室……?)
「うえ、がは――げ、ごほ――」
全身に激痛が奔る。
肺が酸素を渇望する。
視界がくらくら明滅する。
それらの症状すべてが自分の状態異常だと頭で理解すると、俺は自殺しようとしていた事も忘れて怒りがわいてきた。
「いったい誰だ……、殺す気か! 何しやが――る?」
口を噤む。
目の前の光景に目を疑った。
だってあり得ない。
硝子が割れた窓の向こう側。
なんの冗談だろう、女の子が箒に乗って宙を飛んでいる。
まるでファンタジーに登場する魔法使いのよう。
夜を背に、月明かりに照らされて、流れ星のような儚さでそこにいる。
落下途中で見た女の子は幻覚ではなかったのか。いやそもそも幻覚だったら俺はこんなぼろぼろになっていないわけで、でも現実的に考えて箒で空飛ぶ女の子が存在するのはおかしいわけでおかしいんだったら俺は死んでいるわけで――!
「――そうか」
簡単な答えじゃないか。
魔法使いは割れた窓硝子の鋭利な箇所を避けて、俺を投げ飛ばした教室に入ってくる。
その姿があまりに幻想的で荘厳で神秘めいていたので、俺はすとんと腑に落ちた。
「死んだんだ、俺」
俺がすでに死んでいるならこの非現実的な光景に説明がつく。死後の世界など生者にはわからない。だったら訊いたことはないけれど、神様でも天使でもなくて、魔法使いがあの世にいたとしてもおかしくはないじゃないか。
なんだか急に切なくなる。俺のことを高校生まで育ててくれた両親に、俺は親孝行もせず死んでしまった。明日になれば俺が死亡した事実を両親は知るのだろう。きっと泣いて悲しむはずだ。ああくそ――もっと後先を考えるべきだった。これではとんだ親不幸者じゃないか。
「そ、そ、そ……」
(そそそ?)
見れば、女の子は何かに耐えかねるようにぷるぷる肩を震わしていて――、
「そんなわけないだろーーーっ!!」
学校中にこだまするほどの怒声をあげた。
「どこのあの世に学校の教室があるっていうんだ! それに君が死んでいるならここはあの世ってことになるわけで、つまりここにいるボクは死んでるってことじゃないか! 生きてるわ! 勝手にボクを殺すな! というか君はボクに助けてもらったんだから、悟り開く前に感謝の言葉くらい言ったらどうなんだ! 君のせいでボクの肩と腕はすっごく痛いんだぞ!」
女の子はなぜか怒髪天を衝く勢いで激怒していて、窓際に箒を乱暴に立て掛けるとずかずか俺のほうにやってくる。至近距離で見るとさすがに実態のある女の子だとわかった。
何が起きているのかわからない俺は放心しつつも、女の子の言葉から無視できないフレーズを聞き取った。
「助けてもらった?」
「自覚ないってか!」
「俺は、死んで……ない?」
「そうだよ、まったく。君は生きてる。ほんと感謝してほしいよ。……そもそも、飛び降りなんて何考えてるんだ。ボクが間に合ったから良かったけど、あのままだったら頭から落ちて確実に死んでたんだからな。絶対痛いしろくなことにならないんだからな。わかったらもう二度とあんな真似するなよ!」
女の子ははっきりと口にした。
俺は生きている、と。
安堵こそしたが、それはつまり根本的な問題は何一つ解決していないということだ。俺はこれからどうすればいいのだろう。
「くそ……、うぐ、があ……っ」
身体中がずきずきと痛む。この女が目立つせいで気づかなかったけど、正面には机と椅子が散乱している。そういえば女に投げられたとき、あちこち身体をぶつけたんだった。ようするにこの痛みは、目の前の女が原因ということか。
(なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ……っ)
「身体痛めた? 大丈夫? 咄嗟だったからつい投げちゃって、その……ごめん」
女は眉尻を下げて手を差し伸べてきたが、俺はその手を払いのけた。
「痛っ……、ねえ悪いけど文句言われる筋合いないから。それに命を助けてあげた恩人に対してこの仕打ちはあんまりだと思うんだけど。……ボクの話訊いてる?」
女が何か言っているがそんなの訊いていられない。
いったい誰のせいで身体がこんな激痛に襲われていると思っているんだ。
俺はとにかく女の顔がみたくなかったのでこの場を去ろうと決めた。精神的にも身体的にも余裕がないため少しでもその要因を取り除きたかったのだ。俺は痛みを無視してなんとか立ち上がりそのまま歩こうとして、阻むように女に手首を掴まれた。
「どこ行くの?」
ぎらりと鋭い眼光で女が睨んでくる。
その瞳が癪に障って、俺は女が嫌がりそうな言葉を選んでから言った。
「屋上に行くんだよ。恩人気取ってるとこ悪いけど、俺にとっておまえは邪魔でしかないからどっか行ってくれ」
本当はもう屋上に行く気なんてなかったが、嫌がらせで言うならこれが一番効果的だと思った。
だが俺は読みを外したのか、女は眉を顰めて負けじと言い返してきた。
「ふうん。ボクの話やっぱり全然訊いてなかったんだ。ボクは二度とあんな真似するなって言ったんだけど」
「おまえこそ人の話訊いたらどうなんだ。邪魔だって言ってんだよ。それに俺が何しようとおまえに関係ないんだからほっといてくれ」
「嫌だ」
女はきっぱりと告げる。
「目の前で自殺しようとしてる人がいたら止めるのは当然だろ。ほっとくなんてできない」
「そんなのおまえの自己満だろ! 迷惑なんだよ、この偽善者!」
「はあ!? ふざけんなこのわからずや! というか君が巻き込んだんだろ! ボクに見える場所で死のうとして、なんで人が死ぬところを見せられなきゃいけないんだ!」
「知るかそんなの。だったら違うほう向いとけよ!」
「だからほっとくのは嫌なんだってば! なんでわからないんだよ、このバカ!」
(あああ、もうっ! 埒が明かない。何なんだこの女は……っ!)
「うるさい! とにかく離せって。俺は屋上に行くんだよ……!」
「ボクの言うこと訊いてくれないなら嫌!」
俺は自由が利くもう片方の手で、俺の手首を掴んだ女の手を剥がそうとするも、女は両手の握力を懸命に使って抵抗してくる。とはいえ力勝負なら男の俺に分がある。女がどれだけ必死に抗おうと、次第に女の手は俺の手首から剥がれていく。あと少しで振りほどけそうになったとき、じれったくなって女の手を握る自分の手にさらに力を入れた。
「痛っ、ちょっと痛いって……ばっ!」
女は俺の脛を何度も蹴って対抗してくる。
俺は頭に血が上った。
「この……っ」
女の小さな手が潰れてしまうのをお構いなしに握りしめた。するとようやく痛みに耐えきれなくなったのか、女が根をあげてくれた。
「待ってほんとに痛い! 離す、離すからやめて……っ!」
俺の手首に込められた女の握力が緩むと、俺も同様に手の握力を緩めた。女は自分の手を庇いながらうっすら瞳を濡らしてその目で俺を睨んでくる。ちくりと棘を刺されたように良心が痛んだが、無視してその場を去ることにした。
「――――?」
(なんだ?)
何か強烈な違和感に襲われた。
身体が動かない。
体験したことのない拘束感に背筋が凍る。枷を嵌められたなんて表現は生温い。氷漬けにされたみたいに身体が固まって動かない。首すらも振れず、なんとか動かせる眼球は正面に立つ女の笑みを捉えた。
女が吐息をこぼす。次いで発された言葉は嘘としか思えない。
「まったく、君があまりにきかん坊だから動けなくした」
「……何意味わからないこと言ってんだ。どうして俺の身体動かないんだよ……っ!」
「だから言ってるだろ。君を動けなくしたの。特になんのひねりもない、そのまんまの意味で解釈して」
わからない。俺にはこの女が何を言っているのかわからない。
いや違う。俺は最初からこの女のことなど、何一つわかっていないじゃないか。
屋上から飛び降りたのに落下途中で助かったことも、空中でぶん回されて投げ飛ばされたことも、なぜ箒に跨がって飛んでいるのかも、――俺はこの女が何者なのかわかっていない。
「何者なんだ、おまえ」
「そんなわかりきったこと訊かないでよ」
窓際に立て掛けてあった箒がひとりでに宙に浮かぶ。サーカスの演目のようにくるくるとその場で回転すると、女の横でピタリと止まった。女がその上に腰を掛ける。
「ボクは空野ほうき」
女――空野ほうきは口端をあげてにんまり笑顔で言った。
「どっからどう見ても、魔法使いじゃないか☆」
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