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「……〝何か〟なくしたんだ。何をなくしたのか自分でもよくわかってないけど、俺にとってそれはとても大切な記憶とか想いだったんだ。だからなくしたことにも気づけたし、でも気づいたから俺は喪失感に耐えられなくなった。多分〝何か〟っていうのは、俺が毎日を生きていく希望のようなもので、その希望がなくなったから俺は死んでしまおうと思ったんだ」
一度語りはじめると堰を切ったようにあふれてきて、どうにも止めることができなかった。
「何回も思い出そうとしたけど無理だった。屋上から飛び降りたのは、死ぬ間際なら思い出せるかもしれないって考えたからだ。それに、もし思い出せなかったとしても、どうせ死ねるならこの苦しみも消えてちょうどいいと思った。けっきょくむだだったけど……」
執拗な苛立ちが、全身の筋肉を強張らせていく。
なぜ、俺は思い出せてもいなければ、苦しみも消えていないのだろう。
「……ああ、むだだったんだ! なんで俺を助けたんだよ! 勝手に助けやがって、おまえなんかに俺の苦しみがわかんのかよっ!」
こんなの八つ当たりだ。本当は死にたくなかったくせして、生きていたら今度は心にわだかまった感情を整理できずに、空野の優しさにつけ込んで捌け口にしている。
「死ぬこと以外の解決方法ってなんだよ! おまえに俺のなくした〝何か〟がわかるっていうのかよ!? 俺自身、何をなくしたかわかっていないっていうのに、他人のおまえなんかにわかるっていうのかよ! ……もう、どうしたらいいんだよ」
俺はすべてを吐き出して膝から崩れ落ちた。動けない状態で喋るというのは存外に体力を消耗するらしい。……いやそうではない。俺は教室の床に膝をついている。動けるようになっているのだ。それはつまり、空野の魔法が解けたということではないか。
「ごめん……。君の苦しみはボクにはわからない。だって、その苦しみは君個人のものだから」
そういえば、空野は言っていた。
本当にほんとにどうしようもない理由だったら、ボクの気も変わるかもよ? と。
ようするにそういうことなのだろう。やっぱりどうにもならなそうなので、どうぞ勝手に死んでくださいというだけのこと。
「はっ、なんだよそれ……。そんな生半可な気持ちなら最初から俺を助けるなよ……。中途半端に! 俺を助けてんじゃ――」
「でも、君が苦しんでいることはわかるよ」
――空野の両手が俺の頬に優しく触れた。
「ボクと君とじゃ苦しみを苦しいと思える尺度が違うから、軽々しく共感なんてできない。君だってテキトーに共感なんてされたくないだろ。でも物差しが違うからって、君が苦しんでいる事実がわからないわけじゃない。だからボクは君が苦しんでるってわかっているし、わかっているから――その苦しみが消えるまで、ボクは君に寄り添っていてあげる。死ぬほど苦しいなら生きたいと思えるまでそばで支えてあげる」
いやだから、なんだよそれ。
つまり空野はこう言ってる。
俺の苦しみはわからないからそれは自分自身でどうにかしろ。ただ苦しんでいることはわかるから、俺がどうにかできるまでは見守っていてあげる、と。
そんなの残酷だ。つまるところ、どうにかできるかは自分次第だということ。
だというのに、空野の言葉は、俺の頬を触れている彼女の手のひらの温もりと同じ温度がした。
「生半可とか中途半端とか言ったな。上等だ。君を助けた責任とってやるから! 生きたくなるまでずっと一緒にいてやるよ! だから死ぬくらいなら君の時間をボクによこせ!」
「お、おまえが一緒にいてくれたところで、俺が前を向ける保証がどこにあるっていうんだよ……」
「こんの偏屈やろう……っ。いいよわかった、一緒にご飯食べてあげる!」
「は、はあ? ご飯?」
「それだけじゃない。放課後とか休日は遊びに出掛けてあげるし、ボクの家に来たってかまわない! どーせ君彼女いないだろ? いたら自殺なんてしないだろうからな。だからボクが、擬似だけど彼女になってあげる」
「いや、好きじゃない女と付き合う趣味はないんだけど……」
「擬似だって言ってるだろーが! ぐぬぬ……」
空野はどうして、俺のためにそこまで必死になってくれるのだろう。
やけっぱちになっている気がしなくもないが。
「そうだな、あとは……。君がなくした〝何か〟を思い出す方法ならなくもない。だから君が〝何か〟を思い出せるようにボクも手伝ってあげる」
「――テキトー言うな。そんなのどうやるっていうんだよ」
「君、魔法はもう試した? ボク魔法使いなんだけど」
――そうだった。空野は魔法使いだった。
魔法はまだ試したことがない。魔法なら、俺は〝何か〟を思い出せるのかもしれない。
「でも時間はかかるよ。ボクのは魔法じゃなくて魔術だし、万能じゃないからね」
空野はおもむろに立ち上がった。
すると狙っていたかのように、割れた窓硝子から夜風が吹いて空野の髪を靡かせた。月の照明がスッポトライトのように、魔法使いに向かって伸びる。チチンプイプイかビビディ・バビディ・ブーかわからないけれど、教室全体が魔法にかけられて青く輝いているように見えた。教室は気づけばファンタジーの一幕に変わっていた。
「死ぬこと以外の解決方法、こんな感じでどうかな」
俺は空野の家族でもなければ、友人でも恋人でもない。だというのに、どうしてついさっき逢ったばかりの俺のことを、こんなに助けようとしてくれるのだろう。空野がとんだお人好しなだけなのかもしれない。けれどそのお人好しさを、いつのまにか頼りにしたいと思っている俺がいた。
だって、そんな優しい笑顔で手を差し出されたら、もうその手を取るしかないじゃないか。
「……わかった、俺がなくしたものを探すの、手伝ってくれ」
「――よかったああああ。これだけ言ったのに死にますとか言われたらどうしようかと……。意外と頑固だからさぁ、君」
わかりやすく安堵の息を漏らす空野に手を引いてもらい立たせてもらった。
「……悪かったな。それと手、痛くしてごめん」
「あー、いいよ別にそんなこと。明日になればもっと謝ってほしいことあるから。それより時間もらうからじっとしてて」
「――――?」
空野は箒の柄の先っぽに紐で結んである扇形をした木製の板をはずした。板にはよく見ると側面と奥行きがある。右手に箒を、左手にその板を持った空野の姿を見て、それがなんなのかようやくわかった。空野の格好はまぎれもなく、放課後に教室を清掃する掃除当番の生徒の姿そのものだった。掃除当番が箒とセットで持っているものといえば、ちり取り以外にないだろう。
とはいえ、ちり取りを持っている魔法使いなど訊いたことがない。はたしてそれを何に使用するというのだろう。すると空野は箒の穂先を俺の顔に突き出して――俺は頭から足の先まで、箒でばさばさと掃かれた。
「うわ……ぶへっ」
ばさばさばさ。埃扱いするように俺の身体の表面を繰り返し掃いて、いったい何が集められたというのか、空野はちり取りで何かをすくい取っていた。
「い、いきなりなんて奇行をするんだおまえ!」
「奇行って失礼な! 君がボクの案を了承したから、こうして時間を貰ってるんだろ」
――もしかして、死ぬくらいなら君の時間をボクによこせ! というあれだろうか。それがこの奇行といったいどんな関係があるというのだろう。
「とりあえず、一週間分の時間貰ったから」
空野が見せてくれたちり取りに何やらぽわぽわとした光が浮かんでいた。
「……何これ?」
「だから言ってるだろ。この光は君の一週間分の時間なの。うーん、もう少し詳しい説明がほしいってこと? ……つまり、君の身体から肉体の時間を一週間分すっぽり抜いたの。するとどうなるかっていうと、こっちの光に何か異常が起こらないかぎり、君の身体に何が起きようと君は無事でいられるようになる。君の肉体に時間が流れていないから、事象が介入できないってこと。事象っていうのは時間の流れの中で発生するものだから。それと時間を抜かれたら、時を止められたみたいに動けなくなるんじゃないか、ていう疑問があるだろうけど、そこは大丈夫。抜き取った君の肉体の時間――この光のことだけど、抜いただけで君から切り離したわけじゃないから。無線マウスでFPSのキャラクターを動かしてるイメージをすれば想像しやすいんじゃないかな」
――まったくわからん。
「ようするに俺の時間を物理的に貰ったのか?」
「そういうことになる」
「……もっと簡単に説明してくれ。ようするに、どういうことなんだ」
「君の自殺防止策、念のための保険。君は自殺できないってこと」
空野はちり取りに浮かんでいる光――俺の一週間分の時間らしい――をスウェットのポケットにしまった。まだよくわかっていないけど、だいぶ扱いが雑ではないだろうか。
「それ落としたりしないよな」
「へーき、ボク物の管理いいから」
(……そういう問題か、これ?)
俺の心配をよそに空野はふわぁと欠伸をした。
「もうすぐ二二時だ。とりあえず今日はもう疲れたから帰ろう。デートの予定とかもろもろの話はまた明日。はあ……、夜の飛行が日課なのに全然できなかった。今日寝れるかな……」
「は? デート?」
デートって誰と誰が。
「うん。放課後は一緒に帰るときのノリで決めていいにしても、休日は学校もないからそうもいかないでしょ。ちゃんと予定立てないと、デートがなあなあになって終わっちゃう。せっかくデートするなら、いいかげんは嫌だからな、ボク。……というか、デートしたことあるの、君」
デートなんて生まれてこの方一度もありませんけど、それが何か……?
(……って、いやいやそうじゃなくって!)
「俺とおまえがデートするのか?」
「そうに決まってるだろ。デートに行かない人とデートの予定を立てる人がどこにいるっていうんだ。擬似だけど彼女になってあげるって言っただろ」
――そんなことも言っていたな。あれ本気だったのか。てっきり俺を死なせないためにその場しのぎで言った、実現性のないプランだと思っていた。
(好きじゃない女と付き合う趣味はないって言わなかったか、俺……)
俺としては、魔法を使って〝何か〟を思い出すことのほうが重要なので、デートはしなくてもかまわない。それに俺は、空野が俺のためにあんなに必死になってくれていたから、この魔法使いの手を取ったのだ。
「いや、デートは無理にしなくていい。おまえだって好きでもない男とデートなんてしたくないだろ。魔法で思い出すことを手伝ってもらえるなら、俺はそれでいい」
「うっさい!!! つべこべ言うな!!!! するんだよ!!!!!」
「え? お、おう……すまん」
空野の気迫にたじろいで、思わず首を縦に振ってしまった。
おそらくこれまでで一番気迫がこもっていた気がする。
「……明日の昼休み、一緒にお昼食べながら予定立てよ」
「わ、わかった……」
「じゃあ、これで解散。君はちゃんと寄り道せずに帰ること」
寄り道なんて頭の片隅にもなかったが、俺は自殺防止策という予防線なるものを空野に張られたあたり、完全に信用されてはいないのだろう。空野に自殺を防がれてから、俺が空野にとってきた態度を顧みれば、それもしかたのないことといえた。
空野はちり取りを箒の柄の先っぽに紐できゅっと結わえてから箒に跨がった。空野の足がふわりと床から離れていく。
「それじゃ、また明日。ばいばい、夜人君」
自転車を運転するかのように慣れた操縦さばきで割れた窓硝子をくぐり抜けると、その背中はあっという間に遠ざかって夜に溶け込んでいった。
教室にぽつんと一人取り残された俺は、帰る前にふと思った。
「俺、あいつに名前教えたっけ?」
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