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写真②
公園の前を避けて歩き、家の前についた拓人は周囲を見回してからドアに鍵を挿し込んだ。玄関の下駄箱に寄り添うようにうっすらと埃を被った革靴が置かれている。
リビングに入るとソファには服が何着か無造作に広げられていた。そのどれもが生乾きでだらしなく深い皺を寄せている。朝家を出る時にはなかった物だ。
耳を澄ました。静まり返った家の中で拓人がランドセルを背中から下ろし足元に落とすと、反応するように冷蔵庫辺りで僅かに音がした。覗き込むと父親の健司が膝を抱えて座り込んでいた。
「お父さん、ただいま」
健司は微動だにしない眼でフローリングを見つめている。
「火曜日、家庭訪問で林先生が家に来るって言ってる」
返事をしない父親の様子を見て拓人は小さく息をつき、ソファの上に広げられている洗濯物をひとつずつ拾っていく。それらを2階に持って上がりベランダの物干しへ掛け始めた。部屋に戻ると今度は担任の林から言われたように、コロモガエをしようと押入れの中の服を物色した。半袖のTシャツを何着か引っ張り出した、試しに着てみるとゆとりがなく少し窮屈だった。それに半袖だけではまだ肌寒い。軽く羽織れる上着が欲しい、しかしそれらがどこに入っているのかわからない。こんな時に母親がいればと、また線香の匂いが胸に蘇った。
母親が病死し告別式の日、近所に住む人達は眉を寄せて拓人の小さな存在に視線を向けた。5歳の息子を父親の健司は男手一つで育てていかなければならない。皆同情せずにはいられなかった。健司は参列者に対し1人ずつ丁寧に礼を述べた。その姿は誠実で清楚だった。
「何か力になれる事があれば言ってね」
「仕事で帰りが遅くなるようなら、うちで拓人君を預かってもいいから」
「あの年頃で母親を亡くすなんて、これから辛いでしょうね」
周囲に掛けられる慰めの言葉を聞いて、健司は噛み締めるように頷いた。そして誓った、どんな事があってもこの子を自分の手で立派に育てる、と。
職場では早く切り上げられるようにと常に時間を気にしながら仕事をこなし、保育園に拓人を迎えに行き、買い物、夕飯作り、洗濯、食器洗いとせわしなく動いた。入浴の後、拓人が眠りについた後も当然寛ぐ時間などなく、すぐに翌日の準備に手をつけなければ睡魔で倒れ込んでしまいそうだった。そうなれば地獄の朝を迎える事になる。
保育園で会う母親達はスーツ姿で送り迎えをする健司を見て関心し、良い父親だと陰で囁いた。実際、健司は裏表なく拓人のため必死に毎日を過ごしている。男だけの家庭、兄弟もなく寂しさを紛らわせる為に何をしてやれるか、そんな心配が常に頭にあるものの忙しい毎日に追われる。
健司を気遣い、隣に住む曽根は時々食事を作り親子が元気に暮らしているか様子を見に行った。
「どう?変わった事はない?」
曽根が尋ねると健司はいつも笑顔で応対した。
「いつもすみません、料理助かります。たいしたお礼もできず」
「いいのよ気にしないで。大変でしょ、来年はたっくんも小学生になるし。準備は進んでる?」
「ええ、まあ。拓人も最近は手伝いをしてくれるんですよ」
「へえー、いい子だねえ。めぐみさんも喜んでるだろうね。ちゃんと見てるよ、きっと」
「そうだといいんですけどね。甘えたい年頃に父親しかいないもんだから、随分我慢させてます」
「まあね。確かに母親が恋しいとは思うけど、お父さんが一生懸命にやってくれてるんだからそれなりに愛情は伝わってるはずよ。あなたも頑張りすぎて体壊さないようにね、休みたい時はいつだってたっくんを預けてくれていいんだから」
「ありがとうございます」
拓人は物静かな性格で走り回るような活発さはなく、アニメを観たり本を眺めていることがほとんどだ。まだ字の読み書きができない拓人には図鑑がいいだろうと考えた健司は、動物、植物、乗り物、星座など、様々な種類の図鑑を買ってきては小さな本棚に並べた。
「拓人、お母さんは星の写真を見るのが好きだったんだよ」
そのひと言で拓人は星座の図鑑を開く事が多くなった。そして時々星座の写真を指差して健司に星座の名前を尋ねるのだった。
小学3年生になると拓人はスーパーで買い物できるようになった。健司が風邪をこじらせ数日仕事を休んだ時には調理実習で習ったオムレツを作り父親を感心させた。
「拓人は成長してるなあ」
高熱で潤んだ健司の弱々しい目を見て、拓人はもっと自分にできる事はないかと考えた。数日後、学校帰りに家の前で隣人の曽根と会った拓人は、料理を教えてほしいと頼んだ。
「たっくん、あんたまだ小学3年生でしょ。教えてあげるのはいいけど、大人がいない時に家で火を使うのは危ないからやめときなさい」
「でも、お父さん帰ってからも休む時間ないからご飯は僕が作ってあげたいんだ」
「そうは言っても…。あ、じゃあご飯の用意したい日はうちに来て一緒に作る?」
「いいの?」
「いいわよ。優しいねえ」
曽根はめぐみの面影と重なる拓人の笑顔を見て目頭を熱くさせた。
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