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愛が死ぬ瞬間を経験したことの無い人が、うらやましいと思う。
赤と緑の月が輝く青い空の下、穏やかな風が吹く公爵家の庭園でお茶を飲む。咲き乱れる花々が風に吹かれて、さやさやと微かに歌う。
白いテーブルに白い椅子。ガラスのポットの中には色とりどりの花が開き、淡い紫色の花茶が満ちている。白い皿の上には、砂糖漬けの花と果物。甘い甘い焼き菓子。そして、私の目の前に座っているのは夜色の髪に赤い瞳の美しい魔術師。
婚約者に裏切られ絶望した私は、私のささやかな魔力をすべて使って魔物を呼び出したはずだった。魔物に殺されて終わりにしようという私の決意は、「お茶が飲みたい」という魔術師の気の抜けた言葉で、しぼんでしまった。
「その白いドレスは、貴女の銀糸の髪と紫水晶のような瞳にとてもお似合いですね」
魔術師は優しく笑い、私はドレスに視線を落とす。最期の為にと用意した白いドレスの輝きがむなしい。
「……ありがとう」
儀礼的に答えて顔を上げると、魔術師の赤い瞳に視線が囚われる。美しい赤色は、幼い頃に遊んだ黒猫の瞳を思い出させた。
「今日の呼び出しは、何のお話ですか?」
そう聞かれて、私は困った。話をする為ではなく、殺してもらう為に呼び出したとは言えない。
何の話題も思いつかなかった私は、婚約者の第二王子が私を裏切って、侯爵家の令嬢を身籠らせてしまったことを話した。
貴族の娘が結婚前に子供を産むことは絶対に許されない。この国で五指に入る財力を持つ侯爵家の令嬢を愛妾にすることもできず、一月後に予定されていた私との結婚式を令嬢に譲ることで話がまとまった。
「それは……残念なことでしたね」
「いいのよ。結婚式を挙げる前にわかって良かったと思っているの。今頃、あの方は招待客へどう説明するのか、頭を抱えていらっしゃるのではないかしら」
国内の貴族たちには表面上理解されたとしても、外国からの貴賓にどう説明するのだろうか。王と兄王子は、第二王子を突き放し、一人で後始末をするようにと厳命していた。
公爵家の娘である私に瑕疵があると言えば、国内の高位貴族から反発を受ける。侯爵家の娘に責任があると言えば、侯爵家が保護する豪商たちから反感を買う。自らの責任であることを認めて説明できるだろうか。
「おやおや。あれ程お好きだと仰っていたのに、冷たいですね」
優雅な所作で、魔術師は私が淹れた花茶を飲む。
私が王子を慕っていると発言していたことを、どうして知っているのか。何故と考えても仕方ない。相手は魔術師なのだから、何でも知っているのだろう。
私は過去、王の勧めで他の公爵家の長男と婚約したことがある。その人も同じように別の下級貴族の令嬢と浮気をした。王が激怒し、その人は勘当されて今はどこにいるのかわからない。令嬢は年上の引退した貴族の後妻になったと聞いている。
その婚約破棄のお詫びとして、今回の第二王子との婚約が結ばれた。私は不要だと思っても、王が勧めてきたのだから受けるしかない。
貴族の娘には選択の自由はない。そう理解していたからこそ、私は第二王子を愛する努力をした。王子妃として恥ずかしくないように様々なことを学んだ。
「……私は、私だけを愛してくれる人でなければ嫌なの」
共に人生を歩むと誓った相手に裏切られた時、地面が崩れ落ちて行くような絶望感に襲われる。自分の存在すべてが否定されたような虚無感を、私は二度経験した。
愛が死ぬ。それは裏切った相手への興味を無くし、無関心になることで自分の心を護ることだと私は知った。
魔術師がぱちりと指を鳴らすと、白い薔薇が一輪現れた。魔術師は私に薔薇を差し出す。
「私は貴女だけが好きですよ」
「ありがとう。……そうね。貴方の想いを受けてみようかしら」
薔薇を受け取り、その香りを楽しむ。いくら美しくても、相手はどこの誰ともわからない魔術師。貴族の義務を忘れてはいけないと思いながらも、私の心は疲れ果てていた。
「おや。それは妥協ですか?」
「そうかもしれないわね。愛するということに疲れたの。愛して、隣で歩く為の努力をしても、結局は儚げな若い女性に目を移してしまうのだもの」
過去の婚約者二人とも、若くか弱い令嬢に手を出した。
「……可愛げがないというのは認めるわ。でも、ただ可愛いだけでは、夫を支えることなんてできない。そう、思ってきたのよ」
令嬢との火遊びは、ただの息抜きのつもりだったと王子は言った。それなのに、謝罪の言葉の端々から令嬢への愛を感じてしまった。息抜きが本気になった。私にはそう聞こえた。
貴婦人の作法もすべて忘れてテーブルに突っ伏すと、そっと髪を撫でられた。許可なく触れられることが、不思議と不快ではないと感じる。
「復讐したいというのなら、お手伝い致しますよ」
「いいえ。もう関わりたくないだけだから、いいの。復讐すれば一時は気分が晴れるかもしれないけれど、きっとその記憶が私の心を暗くしてしまう。……ここからは愚痴よ。聞き流して」
頷いた魔術師の手から青い小鳥が飛び出して、二人の周囲を飛び回って消えた。
「防音結界を張りました。これで私の他には誰も聞こえません」
美しい魔術師は、唇に人差し指を当てて片目を瞑る。この人は、とても優しい人なのかもしれない。
「……本当はね、相手の令嬢と不仲になって、戻ってきてくれたらと願う気持ちもあるの。でも、私はもう二度とあの方を信用することはできない。常に裏切られることを心配して生きることになる」
「裏切る方は裏切られた者の気持ちなんてわからない。裏切られた者は、一生忘れることなんてできないのに。忘れたふりをして笑うことが、どれだけ苦しいことなのか。理解もせずに忘れていくのよ」
悔しさで握りしめた私の手を、魔術師がそっと開かせた。手のひらは私の爪で傷がつき、血が滲んでいる。
「ご自分を傷つけてはいけませんよ」
魔術師が傷を撫でると、傷は綺麗に消え去った。
「私と一緒に、遠い世界に行きませんか?」
「遠い世界?」
「私は貴女を決して裏切りません。何があっても貴女を護ることを約束します。貴女は覚えていらっしゃらないかもしれませんが、幼い頃に何度も会っています。その時から、私はずっと貴女だけを想っていました」
「それなら、早く迎えに来て下さったらよかったのに」
そうすれば、私は絶望を二度も経験せずに済んだ。
「心の痛みや苦しみは、人間の心を磨くのです。心の傷を乗り越えて、貴女は本当に美しくなった」
「乗り越えてなんかいないのよ。ただ忘れようとしただけなの。……今も厳しい状況から逃げようとしているだけなのよ」
二度、婚約破棄された女。私に瑕疵はなくても、傷物として扱われるのは目に見える。ましてや結婚式をすべて譲ることになった件は、公爵家の娘という肩書だけでは拭えない噂になってしまうだろう。
もう通常の結婚は望めないかもしれない。王が新たな縁談を用意すると仰っていても、年齢と身分の条件が合う独身貴族には既に婚約者がいる。王命が下されるとすれば、今度は婚約者を引き裂く悪女の汚名が待っている。
これから公式の場に出ることを想像するだけでも息苦しい。だから私は逃げ出す為に魔物を呼んだ。
「異世界には『逃げるが勝ち』という言葉がありますよ。今は逃げ出しても最期に笑うことができたら、それで良いのではないですか?」
「……最期に笑えるかしら?」
笑えるなんて思えない。我慢できずに、ほろりと零れた涙を魔術師の指が拭う。
「私なら、貴女を最期まで愛します。ずっと貴女が好きでした。そしてこれからも」
「私は貴方を愛せないかもしれないのよ? もう愛する努力はしたくないの」
「それでも構いません。私は頑張る貴女も頑張らない貴女も、大好きですから。もしも私が嫌いだと思われたなら、貴女を幸せにしてくれる人を探しましょう」
「どうして……そこまでしてくださるの?」
「私は貴女の素直な笑顔が大好きです。いつかまた、子供の頃のように笑ってくれるのなら、私は奇跡でも何でも起こしてみせます」
微笑む魔術師が指を鳴らすと、白く可愛らしい扉が現れた。
魔術師の赤い瞳はどこまでも優しい。見つめ合う中で、赤い瞳が人間のものではないことに気が付いた。
――ああ、そうか。私は唐突に理解した。幼い頃、私は同じ瞳の黒猫を呼び出しては遊んでいた。
知性を持たない魔物はその姿を変化させることはできない。黒猫に化けることができるのは知性を持ち、悪魔とも呼ばれる魔性だけ。
私が黒猫を呼び出さなくなったのは、いつだっただろうか。
「私に、新しい世界と貴方の愛を見せて」
「貴女のお望みのままに」
私は魔術師の差し出す手を取り、新しい世界へと続く扉に飛び込んだ。
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