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◆ 腐れ縁×幼馴染 四日目:夜 (真希視点) ◆
五月二十六日、木曜日。渡された合鍵で慎也のアパートに入ると、彼は髪を濡らしたままテレビを見ていた。
「おかえり」
「……ただいま」
首からタオルはかけているのに、濡れた髪の毛先からは雫がポタリポタリと落ちていく。
普段なら簡単に拭ける短髪も、利き手が使えないだけやりにくくなる。
今の慎也を見て、改めて怪我の重さを痛感した。
「ねぇ、濡れたままだと風邪ひくよ?」
「ひかないだろ。ギプスしてからはずっとこうだし」
確かにそうかもしれない。右腕を上げられないのなら、慣れない左手で不完全に乾かすしかない。
昨日までの私なら、それもしょうがない、と流せたかもしれない。怪我をしたのならしょうがないと、理由をつけて納得できたのかもしれない。
……だけど、今夜はその事実が酷く胸を締め付けた。
「じゃあ、今日からは私が拭いてあげる」
「は?」
「ほら、あっち向いて。動かないで」
肩にかけていた鞄をソファーに置いて、素早く慎也の後ろに回り込む。
彼の肩にかかったタオルを手に取って髪を拭き始めると、慎也は不思議そうな顔で振り向いた。私の行動を止める言葉はないけど、代わりに『どうした?』と言いたげな顔を見せて。
だから私は慎也の顔を正面に向けると、彼と顔を合わせない体勢を作ってから、躊躇いながらも口を開いた。
「……子供、庇ったんだって?」
自分の注意不足が生んだ怪我じゃない。誰かを守るために追った大怪我。
事実を知った今、慎也の腕のギプスを見ると心が痛んでしまい、私は無意識に目を背けてしまった。
「誰から聞いた?」
「慎也が庇った子供の親御さん。さっきアパート前で会って、お菓子箱貰ったよ」
アパートのインターホンを鳴らしたが、入江さんは出なかった。
そう言った夫婦の言葉を思い出し、その理由は慎也がシャワーを浴びていた時間と重なったからだと今なら分かる。
私は『渡してほしい』と頼まれた白い紙袋に入ったお菓子を見つめながら、その中に入った子供からの手紙の存在も思い出す。
何を言うべきか考え、黙り込んでしまった私。代わりに、次は小さな溜息をついた慎也が口を開いた。
「トラックとか大きい車って、子供にとっては夢中になる存在だからな。周りに気付かず近づいても無理はないだろ」
俺も、昔はそうだったからな。
そう言葉を続けながら、慎也は頭を僅かに右側に向けて、表情の代わりに声で笑った。
「幸い、トラックが子供を轢くこともなかったし、子供も怪我をすることはなかった。みんな無事だから良かっただろう」
骨だって、折れることはなくひびが入った程度でとどまった。
慎也はその事実を良かったことのように話していく。表情は見えないけれど、言葉はこの結末で良かったと肯定している。
――私は、それが許せなかった。
「よくない」
だから彼の髪を力任せに拭きながら、私は怒る。
「周りが無事でも、慎也が怪我したならよくないじゃん。バカ」
トラックの運転手さんが加害者になることはなかった。子供が怪我を負うことはなかった。事故が大事になることはなかった。
――それがなんだ。慎也が怪我を負ったのに、何が『良かった』なんだ。
分からず屋の幼馴染が許せなくて、私は一層力を入れて髪を拭いた。
拭いたというよりは、力任せにタオルを動かして、髪をくしゃくしゃにしているだけなのだけど、知ったことか。
バカ、バカ、バカ、と。何度も悪口を言いながら、私は彼の髪をめちゃくちゃにしてやる。
「おい。お前、バカって言い過ぎだろ」
「うるさい、バカ」
「悪口言いたいなら、もうちょっとボキャブラリー増やせ」
「……ばーか。ばーか」
「……ったく」
もういい。と、慎也が私の手からタオルを奪う。
乱れた髪はそのまま。振り返って向き合う体勢になった慎也は、まっすぐにこちら顔を見つめ、私は背けるように俯く。
「子供を助けたヒーローなんだけど、俺」
「怪我するヒーローなら、やめた方がいいよ」
面と向かっては言えない。だけど、言って伝えたい。
怒りながら不満を口にすると、彼は不意に顔を覗き込んで、涙をこらえる私の顔を見て苦笑した。
「……次からは、もう少し気をつける」
「絶対に、そうして」
出来れば少しじゃなくて、もっともっと気をつけてほしい。そして、誰かを庇って怪我をしないでほしい。
世間では美談とされるだろう話も、私にとっては悲話でしかない。
子供の無事を喜んでいないわけじゃない。さっき出会った夫婦のことを思い出すと、大切な家族が救われたことはいいことなんだって分かっている。
だけど――だからこそ、私は慎也に怪我を負ってほしくなかった。
あの夫婦と同じで、大切な人が傷つく姿なんて見たくないんだ。
「……ばーか」
最後の悪口を言うと、慎也は困ったように眉を顰め、
「バカって言う方がバカって、子供の頃に言わなかったか?」
そう言って、駄々をこねる子供のような私の頭を撫でてくれた。
<次回:五月二十七日(金)夜> ⇒
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