3人が本棚に入れています
本棚に追加
僕は彼女にこの木の所で会った。それは僕が日々イヤな事が有った時に訪れている大木だけど、別に歴史が有る訳でもなく、普通に寂れた広場の端に生えている桜の木だった。
その木は毎年春になると綺麗な花を咲かせるが、特に管理もされないで住宅と田畑に囲まれた広場になっている土地に有った。そんな物は春以外には誰も気に留めないくらいの物で、冬の今は周りに人も居ない。
ちょっと学校でイヤな事が有って、僕は毎度の如く自分だけの癒しの場として夜になっているのも気にしないでその木の下に座って居た。少し寒くて、風が吹いている。時々枝で巻かれた風がビュウっと鳴いてい居た。
自然の音に癒されながら僕は今日のイヤな事を忘れようとしていた。それにしても今日の風は思ったよりも強くてもう冬の終わりを知らせている様でも有った。
そうしてある程度僕の心も落ち着いたので、寒くもなったし家に戻ろうと木の袂から立ち上がって一歩踏み出した時だった。どこかで鈴の音が鳴っている気がして振り返った。
有るのは桜の木だけでその向こうは田んぼが続いている。そんな所に人間どころか猫すらも居ない。だから聞き間違いだろうと思ったが、さっきの鈴の音が意外と近くだった様な気がして首を傾げた。
その時にまた鈴の音が聞こえる。ハッキリと聞き間違いとかでは無い。そしてなっている方向も解って、それは桜の木の上からだったので僕はそちらを見た。
木の上にはジーンズにシャツを着てジャンパーを羽織っている人の姿が有った。しかし、これはおかしい事でも有る。今は冬で桜の木には花どころか葉っぱすらも無い。
そして僕はこの木を訪れた時に他に人が居ない事を確認していた。そりゃあ落ち込む時に周りに人が居る所なんて選ばない。なんとなく木だって見上げたのでそこに人が居たら解る。
「ちょっと、危ないですよ」
僕は驚いているのをかくしながらその人へと普通に話し掛けてみた。一つ思う事はその日とは結構高い所に居て、そうなると木の枝も細くなっているから危険でも有る。
その声は木の上の人まで届いた様子でその人は僕の方へ顔を向けた。てっきり格好から男の人だと思っていたのに、その表情は柔らかい印象の有る女の子で、中学生の僕とそう歳も変わらない印象だった。
一度振り向いたのに彼女はプイっと元に戻って僕の事を気にもしてない様子。だから僕は今度は強めの言葉で「枝が折れるだろ。降りなさい」と言った。
この桜の木は誰も管理なんてしてないけれど、やはり春の美しさで近所の人からは大事にされている部分も有る。だから僕もそんな近所の大人たちの事を真似てみたのだった。
すると彼女はもう一度振り返ると、今度は驚いた顔をしている。そして僕と目が合うと不思議そうに見詰めていた。
「君だよ。そんなところに登ったら危ないよ」
話を聞いてくれそうな顔をしているので、僕は再び穏やかな言葉で話す。
彼女はその言葉を聞くと、スッと足を出した。もちろんそこは地面なんかでは無くて更に枝も無い。彼女は落下し始めた。
木の上の彼女が居た所からは結構な高さだったので、僕はつい目を逸らしてしまったのだが、トスっと言う音がして見てみると彼女は平然とその場に着地をしていて、まだ僕の方を見ていた。
それからずっと不思議な顔をしながら彼女はスタスタと僕の方へと近付く。もう彼女の細めな瞳がキラキラと輝いているのだって解るくらいに近付いた。
「君はあたしの事が見えるの? 不思議な子」
急におかしな事を言い始めた。これは中二病と言うものなのだろうか。そう言ってクスクスと笑っている彼女の事を眺めながら僕は呆れてしまっていた。
「馬鹿な事を言ってないで、危ないからもうあんな事をしない様にね」
ストンと僕はさっきの怒りの言葉を出せなくなっていた。それは彼女が変な事を言うからだけでは無くて、今笑っている彼女の表情がキュート過ぎたからだ。
笑うと線になる様な瞳と口角を上げクスクスと笑う姿は幼さも残していて、どこか小動物の可愛らしさも持っている。言葉は似合わないかもしれないが、彼女は美しい。
「危なくないよ。枝も折れない。君はこの木の事を大事にしてるの?」
「まあ、そうだね。なんかこの木の所に来ると落ち着くんだ」
なんとなく会話を始めてしまった。素敵な人だと思うけれど、言動のおかしな人だから話し込むのは避けた方が良いのかもしれないと思っていた。なのに彼女の問いにはなんとなく答えてしまっていた。
「ふーん。この木の所には良く来るの?」
「ときどき…」
完全に彼女のペースで喋らされている。それでも僕はしょっちゅう訪れる事を黙っておこうとしたのだが、そうなると語尾が変になって、また彼女は笑っていた。
「この木はとても力が強い。だから君はその影響を受けてあたしの事が見えるのかもね」
これだ。またおかしな事を言っている。もしかしたら自分の世界の話をしているんじゃなくて、おかしな宗教の勧誘とかもしれない。これは逃げなければならない。
「じゃあ、危ない事はしちゃダメだよ」
「あれっ? お話は終わり? まだちょっと期間この木の所に居るからまた会えるかな?」
「さあ、どうだろう」
危ないのかもしれない。僕はそう思ったので空返事をして、彼女を残してその場から離れる為に歩き始めた。
道路まで出てから一度振り返ると、彼女はもう僕とは反対の方向を眺めていた。その姿が月明かりに照らされてとても美しかった。
翌日の通学の時に木の所を見たけれど、もちろんそこに人の姿は無かった。当然彼女も家に帰ったのだろう。しかし、どうしてか彼女の事が気になってしょうがない。
学校でもずっと彼女の事が浮かんでしまって、それはもう恋をした様でも有った。そう思った時に納得した自分が居る。
彼女は愛らしくて美しい。笑っている姿を思い出すだけで僕の心がホッとする。そうなんだ。僕は彼女に恋をしてしまったのだろう。
それが解ってからは行動する事は一つだった。別に彼女がおかしな言動をしたからってどうだって良い。そのくらいに彼女は素晴らしい人なのだから。
僕は彼女に会いたくて急いで家路を走って、桜の木の有る広場へと向かった。
だが、そこに彼女は居ない。そりゃそうだ四六時中こんな所に居る方がおかしいのだ。僕も彼女と同じくらいにおかしい。
落胆しながらも僕は気の袂へと進んで幹に背中を預ける形で座った。どこかで鈴の音が聞こえる。
「今日はお喋り出来るの?」
急に背後から声が聞こえて立ち上がって振り返った。確かに気の方から声がしていた気がする。
けれど、そんな事は有り得ない。僕が驚いていると、木の反対側からひょっこりと彼女が顔を表した。
「なんだ驚いた」
「どうしたの?」
「木が喋ったと思って…」
そんな事を僕が思ったかと思うとちょっと照れ臭くなってしまう。
「それは無くは無い」
やはり彼女は普通では無い。それでもその様子に引く事は無かった。笑っている彼女を見ていると、僕は幸せにもなっていた。
「有り得ないよ。そんな事。気が喋るなんて」
「そうでも無いよ。あたしには聞こえてる。君が落ち込んだ時にいつもここを訪れてる事を教えてくれたよ」
「そんな事、なんで知ってるの?」
「だから木が教えてくれたんだよ」
ニコニコとして居る彼女に二の句が告げなくなってしまって、僕は取り敢えず彼女の要望しているお喋りをする為に二人で並んで座った。
「君は不思議な事を言うけれど、それってどう言う設定?」
「設定とかじゃないよ。あたしは春を告げる旅をしている。この地の冬を終わらせる為にこの桜に立ち寄ったの」
「意味が解らない。君は…妖精とかそんなもの?」
一応彼女の妄想に合わせて見る事にした。まだ彼女と話せるなら本当の事を知れると思ったから今はそれで良い。
「うーん、まあ、そんなところかな。ホラ、最近風が暖かくなってきたと思わない? あれがあたしの力」
ニコッとして彼女は楽しそうに僕に笑顔を見せていた。その意味は解らないけれど、確かにもう風に真冬の冷たさは無くなっているのは確かだ。
「そっか、じゃあもう雪とか降らないんだ。この木は雪化粧をしても綺麗なのにな」
「そうなんだ。それは一度お目に掛かりたいもんだけどね」
「この辺に住んでるんでしょ? 来年雪が降ったら見られるよ」
「君はまだ理解してないみたいだ。私は冬の終わりを告げたら次の土地に向わないと、一年中冬の街が出来ちゃうよ」
忘れていた。彼女の世界ではまだ設定が有るのだった。お喋りは難しい所も有る。
「まあ、それよりも花が咲いた時の方が綺麗だから楽しみにしてなよ」
「だーかーら! 冬の終わりまでがあたしの仕事なの。もう直ぐ次の土地に向わないと」
「そっか、でそれはいつごろの予定?」
話を合わせるのも疲れてしまいそうだ。けれど、こんな冗談も楽しいと思える僕も居る。
「正直解らない。まだあたしは新米だからね。師匠が呼んだから次に向かう。この辺は暖かいからもう直ぐかもしれない」
「もう直ぐってどのくらい?」
「あたしの予想では今晩辺り。ちょっと不思議な子と会えて嬉しかったのに残念だな」
これはどう言う事なのだろう。僕と話をする事はもうお断りと言う事なのだろうか。それは僕の方は残念では終わらない。
「僕はどうやら君の事が好きになったらしいんだ。だからまた会いたい」
流石にこの言葉には彼女も驚いた様子でギョッとしている。そりゃあ僕だって勇気が必要だったのだからそのくらいは許してもらいたい。
「そうかこれはなんと困ったなあ」
急に笑顔が無くなってしまって寂しそうな表情で話してた。そんな彼女の横顔を見ていると僕の心はとても痛くなってしまっていた。
多分、それは僕がフラれたと言う事なのだろうから。でも、困った事でも無い。僕はそれでも良いと思った。彼女に想いを告げられただけでも結構満足している自分が居る。
恋が叶わなくとも彼女の事を本当に思うのなら好きじゃない人からの告白は断りやすい方が良いのだろう。
「解った。変な事を言って御免。今の事は忘れて」
「忘れないよ。君は思い違いをしているのではないかね?」
グッと飲み込んで格好を付けた僕が話したのに、彼女はお茶目な笑顔に戻って僕の事を楽しそうに眺めていた。
「困ったのは、あたしと君がもう会えなくなるからだよ。そう言う部分では今の告白は失敗に終わるのだけれど」
「それはどういう事?」
「あたしも寂しいって事だよ」
彼女はとことん設定を守っている様だった。
「もうそんな架空の話は良いから今だけは真剣に話してよ」
のらりくらりと躱されている気分になってしまった僕はちょっと怒っていた。だからこんな厳しい言葉になってしまっている。怒りたくなんて無いのに。
「あたしは真剣だよ。君には真実しか話したくないから」
ちょっとシュンとした様子で彼女が語っていた。するとさっきより風が強くなった気がする。そうして僕の横でまた鈴の音が鳴っている。
彼女が鈴を持っているのかと思って横を見ると、そこに彼女は居なかった。
キョロキョロと僕が彼女の事を探していると「こっちだよ」と声がした方を見上げる。桜の木の枝の上に立って居る彼女が居た。
いつも間にそんな所に登ったのか解らなかったが、彼女は枝の上から手を伸ばした。
ちょっと遠かったけれど、僕もその手に自分の手を伸ばして掴んだ。
その時だった。
一瞬ビュウッという強い風の音がしたかと思ったらそれは鈴の音になっていた。そして僕の身体はふわりと地面から離れていた。
そして彼女もフワフワと浮いて僕達は夜の星が見え始めた空へと浮かんで行く。
そこはとても静かで風の音さえも聞こえない。さながら僕自身が風になっているみたいだった。
まだ空には群青の所が残っていたけれど、街は明かりを灯して天地をひっくり返した様に天の川が流れている。
とても不思議な事だった。暫く僕は言葉も無くして彼女と空中散歩をしてから、また桜の木の袂へと文字通り舞い戻った。
「今のって、本当に空を飛んでたの?」
「君は起きながら夢でも見るの? 嘘じゃないよ。私が普通の人間じゃ無い事解ったでしょ」
まるで天女の様な彼女はとても愛らしい笑顔をしている。例え彼女が普通の人間でなくても、それこそ悪魔だったとしても関係無い。僕は彼女の事がやはり好きだ。
「君の言っていた事は本当なんだね。もう離れなきゃならないの?」
「うん。もう次の土地の冬を終わらせないと」
「これから一生冬だって良いから僕と一緒に居てくれない?」
なんとも自分勝手な言い分だったのだろう。でも、これが僕の本音だ。世間の事なんてどうだって良い。今は彼女の事を話したくない。
彼女は困った笑顔になってから、反対側を向いた。僕を見ない様に。その時の彼女は喜んでいた様に思えた。それは僕の自分勝手な想いなのだろうか。
「ゴメンね」
その言葉は彼女は振り返らずに言ってしまって、僕の事を見ないで彼女はもう真っ黒になってしまっている空へと飛んでしまった。
名前も知らない彼女の事を呼ぶことも出来ないで、僕は夜空を見上げながらずっと彼女の事を探していた。
姿が見えなくなって暗い所をずっと見ていたので星が眩しいくらいになった頃、僕の周りを風が包んだ。もちろんそれを鈴の音を伴っている。
「ありがとうさようなら」
微かな声が聞こえて僕の頬が少し暖かくなった。その瞬間振り向いた僕は彼女の笑顔が直ぐそこに有る気がしたけれど、そこには誰も居なかった。
こんな出来事はもう昔になってしまった。十年以上の日々が過ぎてまた冬の終わりが近付いていた。あれからも僕は度々桜の木を訪れていた。イヤな事が無くても、常々通う様になって、そして季節も問わなかった。
けれど、そんな桜の木も老木となって花を咲かせることも無くなり、今ではもう切り倒されて宅地に造成されてしまった。綺麗に整地された土地を見て僕は彼女の笑顔を思い出す。元々桜の木の有った所は住宅地の境の空間で、その切り株が今でも残されているが取り除かれるのも時間の問題になっていた。
もうこの場所に彼女は現れないのかとただ落ちるだけの僕の目に映ったのは小さな希望だった。切り株の所から木の芽が新しく顔を出している。細やかな風に吹かれているその芽を見ていると、勇気にもなった。
すると風が吹いて鈴の音が聞こえた様な気がすると、頬に暖かさが蘇る。
まだ僕は彼女の事を待つことにした。あの時から姿も見てない彼女の事をただ待つ。呆れた事かもしれないがなぜだか叶わない事では無い様な気がしていた。
おわり
最初のコメントを投稿しよう!