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家に帰ると、私は少年を腕に抱いたまま、まず外の洗い場へ連れて行った。そこで彼を下ろしてから蛇口をひねって大きな盥に水を張る。少し冷たいだろうが、今は夏だし我慢してもらおう。
「お湯を沸かしてくるから、先に水浴びしておいで。一人でできるかい」
少年は小さくうなずいた。洗い場を囲う柵の方へよろよろ歩いていくと、ボロになった服を脱ぎ始めた。私に背を向けて、どうやってか翼を器用に使いながら上衣を剥ぐ。しかし砂と潮でべたついた肌に張りついてうまくいかない。
「手伝うよ」
私は幼い妹や弟のことを思い出し、少年のそばに行って手を貸してやった。脱ぎにくい服はどうせもう着られないから、潔く引き裂いて雑巾として使うことにした。
少年のしなやかな身体が現れる。柔らかな線は成長途中のものだ。まだ若いのに……などとついさっき「あちら」から渡ってきたであろう彼の薄命を悲しんでみると、自分の享年も同じようなものだと思い出した。
そして、私は少年の両腕をよくよく見た。烏のような真っ黒な翼。人の胴体から綺麗な鳥の翼が融合している。
「人間に戻らないのか」
「………………このままでいい」
彼は低くぽつりとつぶやいた。それきり口を閉ざしたので、私は問いかけを続ける。
「翼の腕では、食事をする時に困るだろう?」
「…………いらない……」
「まあ、食べなくても、すぐどうにかなるわけじゃないけど……」
「霞を食べる……」
「うん? はは、そうか。それもいいかもね」
たどたどしくもユーモアのある受け答えができるので、とりあえず心配するようなことは無さそうだ。体力もあるようだし、あとは食べて寝るだけでいい。
私はお湯を沸かしに家へ入る前に少年へ尋ねた。
「君、名前は」
「……エクリプス」
「エクリプス。……蝕だって? あの、日蝕とか月蝕とかいう?」
「蝕の日に生まれたから。ぼくは災いの子だって」
「ふうん……」
深くは聞かない。今夜は温かいスープを作ってやろう。今日採れた茄子と、そうだ、じゃがいもがたくさん余っていたはずだ。
ほかほかと湯気の立つ大きな器を抱えてエクリプスのもとへ戻ってくると、彼は手持ちぶさたにちゃぷちゃぷと盥の水を跳ねて遊んでいた。私はびっくりさせないように穏やかな声で名を呼んだ。
「お待たせ、エクリプス……って呼んでもいいのかな。気にさわるならやめておくけど」
「それでいい」
少年は私をちらりと見ると、翼で水遊びするのを終わりにした。羽根の隙間に混じった砂や小石はあらかた落としたようだ。汚れが落ちると、翼の黒色が深くなったように見える。
翼の次は身体を洗ってやらないと。私は石鹸を泡立てて少年の肌を撫でた。最後に長い黒髪を頭の上でくるりとまとめてやる。
ざばあーっ
「ひえ……」
「ちゃんと息を止めて」
桶にくんだお湯を頭からかぶった少年は、身を縮めた。
「……いたい」
私はエクリプスの濡れた髪を軽くしぼってやる。あらためて細い背中を観察すると、何本か赤い線が走っていた。暗がりでよく見えないけれど、縄目のようなものが見える。何かに縛られた痕のようなものが。
「エクリプス……君は、」
「……いけにえ」
私が声をひそめたので、何を言おうとしているのか彼にはわかったらしい。
生贄。一瞬ぞっとしたが、私は口をへの字にしてエクリプスの傷痕をにらんだ。傷は消えないけれど、こちらの世界に来てしまえばもう彼を痛めつけるものはない。
「綺麗な翼だ。君の飛鳥を教えてくれるかい」
「ひみつ」
「そうか」
それで会話は終わった。私は持ってきたタオルをエクリプスに渡す。今度は着替えを取りにまた家へ入ろうとして、一度振り返った。
エクリプスは遠い三日月を見上げて洗い場にたたずんでいる。小さなくしゃみをすると、両腕を広げて黒い翼を震わせた。水気を切ってもわずかに羽根に付いた滴に、ほんのり周囲の明かりが映る。
美しいと思った。彼に飛び方を教えてくれた師は誰なのだろう。
つい最近まで、私と師匠はこの家で一緒に暮らしていた。狭いながらも生活は楽しかった。私は近所の畑仕事を手伝い、師匠は老師と呼ばれ、村の人に読み書きや偉人の思想を教えるなどして日々の食べ物を得ていた。
私に飛鳥の術を伝え、役目を終えた師匠は北の山に昇った。大きな梟に変身して飛び立ったのだ。山頂を覆う雲海を越えて、最後には天上の星になる。夜空にまたたいている光は、彼らの魂だ。
私もいつか、弟子となる人に翼を与えたら、天を目指す。老師のように、別れるときは安らかな笑顔でいられたらいいと思う。
私が二番目に水浴びをしている間、袖の無い服を着たエクリプスは翼を抱えて近くに座りこんでいた。濡れた髪を風で乾かしながら、じっとしてムダなおしゃべりはしなかった。私が何か言えば、代わりにお腹の虫がぐうと返事をする。
少ない会話からわかったことは、エクリプスはこの蓬莱に来たとき、気がついたらすでに鳥の姿であったらしい。飛ぶ加減がわからず全速力で海を越えてきたのだとか。自力で変身を覚えたとは驚いたが、そういえば、ときどきそういう人がいると師匠から聞いたことがある。一刻も早く救済されたい、孤独な魂の叫びなのだと。
師の部屋は空になってしまったけれど、ベッドなどは残してあるので今夜はエクリプスに譲ることにした。
床につくと少年は三分もかからず眠りに落ちた。黒い翼は胸の上で交差させている。身を守るように。
ちなみに彼は食事の時だけは、体を人間に戻してスプーンを手に取ったのである。細い手首にも赤い戒めの傷痕が見えた。スープの塩加減を尋ねてみるつもりだったのだが、結局言いそびれてしまった。
私のお古の服を着て眠るエクリプスの寝顔は、どうということもないただの少年だった。窓から入ってくるやわらかな月明かりが彼の形の好い唇を浮き上がらせる。
私はランプを片手にじっと彼の寝顔に見入っていた。彼さえよければ、しばらくこの家で寝泊まりすればいいと思っていた。
私はふいに手を伸ばすと、浜辺で出逢ったときのように少年の頬に手を添えて、親指で乾いた唇をなぞる。魅入られて顔を近づけた時、ハッと我に返った。
頭を振って邪念を払うと、私は忍び足で部屋を出た。一度は停止したはずの心臓の鼓動が速く感じられた。
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