天葬

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 翌日、朝食の用意ができたころエクリプスを起こしに行く。少年はすやすやと健康的な寝息を立てていた。よく眠っている。私はふふと小さく笑ってその寝顔を見つめた。真っ黒な翼は変わらずベッドの上に横たわっている。  エクリプスは昼近くになってのっそり起き出した。温かいお(かゆ)と薄く切ったバナナをすっかり平らげると、再びベッドに潜り込んだ。海上を全速力で飛んできたのがだいぶ(こた)えたらしい。食欲はたっぷりある。良いことだ。  今日は畑仕事が休みだ。エクリプスが一日寝ていると話し相手もおらずさすがに(ひま)なので、私は村の近くにある広場に行って小さな教室を開いた。集まった人に、師から受け継いだ飛鳥(ひちょう)の術を披露して、希望があれば弟子にするためだ。私はまだ天の楼閣(ろうかく)へ昇る決意ができていないのだが、飛べるようになったからには、少しずつ次の段階へ進まなければならない。あと百年のんびり海を飛んで過ごすこともできるのだけど……。  教室といってもテーブルを並べて先生と生徒に分かれる本格的なものではなく、ただのおしゃべりに近い。私のところに来たのはほんの二、三人で、女の子や中年男性だ。かつて私も、飛びたいという意志がかたまるまでは、色々な人の飛鳥を見学させてもらった。今日来た人は私の話に興味がなければ別の師匠を捜しに日を改める。  私は自分の飛鳥をみんなに見せた。てのひらに乗るような小さな(ひわ)になり、涼やかな声で鳴きながら見物人の頭上をかすめ飛んでいく。誰かが「ああ」と嘆息(たんそく)した。それは夜に見上げた星空が心に響いたときに()らす「ああ」だった。  変身は短時間で覚えられるものではない。重力から解放され、今までと違う存在になるイメージをつかむのだ。私は疲れを感じる前に適当に切り上げて、あとは雑談に興じた。集まってきた人たちは心にあたためていた過去の栄光、残してきた恋人のことなどを聞かせてくれた。「あちら」での最期の瞬間に何を考えていたのか、彼らの思い出はまだ重力にとらわれているようだ。  小腹が空いた所で解散となり、私は家具職人をやっていたという男性にイスを一脚作ってくれないかと頼んでみた。師匠の使っていたイスはガタガタ揺れて安定しないのだ。手元に届く前にエクリプスが旅立ってしまわないように願う。  今日も天気の良い一日だった。  広場はのんびりとしていた。散歩をする老人もいるし、私と同じように教室を開く若者もいた。  (はち)に刺されたという十歳くらいの女の子が私の教室に残っていた。体のどこにも虫刺されの(あと)が見えない。蓬莱(ほうらい)に来るとき、そうありたいと望んだ姿なのだろう。彼女は孔雀(くじゃく)になりたいと言っている。あの見事な扇形(おうぎがた)を見せるのは繁殖期の(おす)だけなのだが、この神秘の世界では性別を超えることも可能である。  女の子は魂の旅について深く考えておらず、まず「空を飛びたい」願望を叶えたいようだ。さて、彼女が私の弟子になるのだろうか? 練習する気があるのか(たず)ねてみようとしたとき、 「あ、あの子。だあれ?」 「ん?」  女の子がパッと顔を上げて私の後ろへ声をかけた。  エクリプスだった。両腕の代わりに黒い翼を(まと)っている。やっと疲れが取れたのか、彼は昨日よりしっかりした足取りでこちらへ歩いてきた。黒の上衣(うわぎ)帯紐(おびひも)は白。この服も私のお古で、少年によく似合っていた。モノトーンですらりとした出で立ちである。  私は堂々と近づいてくる少年を快く迎えた。(見た目の)年齢が近いせいか、背丈もほとんど同じだった。 「エクリプス? もう外に出ていいのか」 「うん。戸棚のお菓子食べちゃった」 「かまわないよ。私はもう帰るけど、君は村を見て行くかい」  エクリプスはうなずいて、私の隣でもじもじしている女の子に視線を向けた。  彼は挨拶(あいさつ)代わりに翼を広げてみせる。女の子が欲している鮮やかな飾り羽は少年の翼には無かった。  女の子ははにかんだ笑いを見せた。陽を浴びて艶々(つやつや)光る漆黒(しっこく)に見とれているようだ。 「綺麗な翼……。瑠璃(るり)色の羽はないの?」 「ないよ。黒一色でも強そうだろ?」 「うん。すてき」 「君の鳥は?」 「……まだなの。孔雀がいいんだけれど」 「いいね。高貴な鳥だ。ぼくが飛び方を教えてあげようか」  おや。エクリプスの奴、なかなかどうして、そういう会話がなめらかにできるじゃないか。  私はくすりと笑って、一組の男女から数歩下がった。 「エクリプス、私は海へ行くから。夕飯には帰っておいで」 「うん。ぼくもあとで行くよ」 「ごゆっくり」  手を振って私は広場を出る。南へ向かった。  エクリプスは少女を連れてどこかに行ってしまった。半分鳥の姿で歩き回る少年を見ても、気に()める者はいなかった。  私は村を出るいつもの道を歩きながら、心はすでに海へ飛んでいた。(しお)の匂いを(なつ)かしく思った。青空。ひゅうーと朱鷺(とき)が視界の(すみ)を横切っていく。淡紅色の翼が愛らしい。  飛鳥の術を覚えた者はやがて北の山へ昇る。だからさえずりや色とりどりの羽で村が鳥だらけになるということはない。高い場所を往き来できるようになると、その分近づいた星の引力に素直に従うのかもしれない。  蓬来にはいつの間にか人が増え、気づかないうちにいなくなる。  相変わらず海は穏やかだった。私がここに来てから、嵐というものを見たことがない。空も海も、どこまでも続く青い景色。心が静かになる。  浜辺は光を反射してまぶしい。エクリプスが突っ込んできた砂山がまだ残っていた。  私は茶褐色と黄色の(ひわ)鳥に変身した。翼を目一杯羽ばたかせ、沖へ出て昨日とだいたい同じ場所へ飛んでいった。  飛べるようになったからには、そろそろ「幻」を見るのも終わりにしなくてはいけない。  海へやって来ると、私はより高い場所を目指して上昇する。蒼空(あおぞら)()んでどこまでも広い。  風が味方をしてくれる。押し上げられるような気流に乗る。  ぐるりを海に囲まれている。「あの日」と同じだ。私が死んだ時と。羽ばたき疲れたところで私は減速して、眠るように目を閉じた。  目をつむった世界は暗い。陽射しを受けてまぶたの裏が赤く染まっている。やがて心が落ち着いてきて、風と波の音だけが聞こえるようになる。私は身体の力を抜いて、重力に任せて海へ落下した。  私が知っている星はこちらの空には(めぐ)って来ない。村の誰もが冬の三つ星を恋しがった。頭上に広がる天の川のような白い(もや)は、遠い(そら)に光る星々ではない。幾億(いくおく)という先祖たちの魂の(むれ)だ。  いつか私もそちらへ行こう  私たちの体は星から生まれ、星へ(かえ)る  落下はあっという間だった。鋭い風の音を聞きながら、私は闇の中にあの日の夜を映し出した。満天の星。  冷たい海へ入る瞬間、わずかに目を開ける。逆さまに見た紺天の空も、海のようだと錯覚した。  憧憬(しょうけい)。あの日の記憶。眼下に星の海を(のぞ)みながら、私は冷たい水の中へ墜落(ついらく)する。  どぷん  小さな音、小さな水柱  そして、  …………キリリリリ……  軽やかな鈴の音が聞こえてくる  黄色い小鳥が海からちょこんと顔を出した。(おぼ)れる前に素早く羽ばたいて陸へと飛んでいった。水しぶきが白く光る。 「おかえり」  辿(たど)り着いた浜辺には、黒髪の少年が立っていた。
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