天葬

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「星になるんじゃなかったの?」 「……瞑想(めいそう)」 「へんな趣味」 「まあね」  私とエクリプスはそれ以上話すこともなく、二人で砂浜に腰を下ろした。伸ばした足の近くを赤い小さな(かに)がチョロチョロと走っていった。陽は少しずつ空から海へと落ちていく。()めた唇が少し塩辛い。 「あの()に飛鳥の術を伝えるのかい。飛べるようになったら、君もいつか天に昇る準備をするんだよ」 「弟子にはしないよ。蓬莱(こっち)のご飯の方がおいしいし。まだどこにも行きたくない」 「そうか」  苦笑いしながら、私は青い海原を見つめて言った。  話しかけるのはだいたい私からだったので、口を閉じれば会話が途絶えて辺りはざあざあと海の音に包まれた。しばらく遠くの水平線を(なが)めていた私は、昔の話をした。何年も前の出来事。でもずっと(おぼ)えている。最後の瞬間に見た星空を心の中で繰り返している。(まぼろし)の引力は私を解放してくれない。 「私の村は戦で焼かれてしまった。体の小さかった私は子供だと思われて、女性たちと一緒に荷馬車に詰め込まれた。それから船に乗せられた。真夜中、不安で浅い眠りにまどろんでいる時、急に何者かに(かつ)ぎ上げられた。そのまま船から冷たい海へ投げ入れられたんだ。叫ぶ(ひま)もなかったよ」 「そいつを殺したいと思った?」 「わからない。顔も見ていないから。ただ、かなしい気持ちをずっと抱えてる。成仏できなかった。自由になりたい、そう思って私はここに辿(たど)り着いたんだと思う」 「星になったら救われる?」 「……といいけど」  絶え間なく打ち寄せる波。虚無(きょむ)からやって来て、無限の時間を往き来する。  エクリプスは風に(あお)られる黒髪を手で抑えながら、しばらく私の横顔を見つめていた。それからわざとらしくコホンと(せき)をして、ぽつりぽつりと自分のことを話してくれた。今の彼は翼を納め、人間の姿に戻っている。ようやく心を開いてくれたのかと思うと嬉しかった。  しかし、エクリプスはときどき声を震わせて、手首の傷痕(きずあと)をじっとにらんでいた。彼もまた、生きたまま犠牲(ぎせい)となった少年だった。  (しょく)の日に生まれた(わざわ)いの子。飢饉(ききん)が起きた年、太陽の神の(ゆる)しを得るためにその血を(ささ)げられた。 「ぼくは、誰よりも強くなりたい。もっと獰猛(どうもう)で、凶暴な鳥になりたい。みんな嫌いだ」 「もう、君の飛鳥は決まっているじゃないか。別の鳥に変わる人なんて、初めて聞くよ」 「与えられた鳥はいやだ。ぼくの鳥は、ぼくが決める」  救いなんて求めていない。強くなりたい。  私がエクリプスの髪を()でてやろうと手を伸ばすより先に、彼の方から私に抱きついてきた。私は少年を受け止める。血の通ったあたたかな身体を寄せ合った。そっと(ほお)をくっつける。 「エクリプス。お腹がすいたよ、そろそろ帰ろう……」 「うん。おいしいもの食べたい」  エクリプスは小さく返事をすると、力をこめて私を地面に押し倒した。(あわ)てて名を呼ぼうとしたけれど、すでに腰の帯が解かれ彼の温かな手が私の(なか)に入ってくる。  気がゆるんでいた。予想していなかった彼の力強い手に(あらが)うことができなかった。  砂浜に落ちたふたつの影がひとつになる。(なげ)きも、(にく)しみも、潮騒(しおさい)にかき消されていく。  一番星が昇るころ。砂をはたいて服を整えていた私は、初めて見るその星の光が何であるかを悟った。  老師の星だ。  師匠の魂と私の魂は結ばれている。私もいつか星になれば、地上の誰かに見つけてもらえるだろうか。名も無い星が、私の星だと気づいてくれるだろうか。  つ、と涙がこぼれた。 「どうしたの?」 「うん……私の師匠を見つけた」  エクリプスはズボンを()いただけの半裸の格好で、宵の空を見上げた。何も言わずに私の背中を撫でてくれる。  優しく手を動かしながら、口を寄せて、そっと私の耳元で(ささや)いてくる。低い声だった。 「ねえ、あなたが欲しいと思っている空、ぼくが見せてあげようか」 「…………?」  孔雀(くじゃく)に変身したいと言った女の子にも、こんな口説き文句を使ったのだろうか。甘い言葉は私の心を(とりこ)にする。 「私の故郷(ほし)を知っている、て?」 「ぼくたちの魂は結ばれた。ぼくはあなたが見たい星を知ってる」  短く言って、エクリプスは私から身体を離した。立ち上がる少年を目で追いかけると、彼は海の方へいくらか歩いていって、波打ち(ぎわ)で止まった。長い黒髪を風になびかせて私に背を向けている。彼は黄昏(たそがれ)の海の向こうを見つめていた。  夜の刻へと移り変わる青と(だいだい)色の空の下。沈みかけた夕陽の逆光で少年の細い身体は黒いシルエットになった。昨日水浴びしたときに見た少年の背中とは違う。空気が重く感じられた。  メリ……  大木(たいぼく)に裂け目が入ったような音がした。  誰かの鳥の鳴き声かと思ったけれど、そんなことはなかった。海には(かもめ)に変身した娘たちどころかひとっこひとりいない。  エクリプスの背中が裂けたのだ。 「エク……」  穏やかだった海が騒ぎはじめた。  少年の背骨の位置に縦一線の亀裂(きれつ)が走った。血は()き出ない。  さらにメリメリと不気味な音を立てて、背中の裂け目をこじ開けるように内側から黒いものが飛び出してきた。翼が生えてきたのか? いや、何か長いものが何本も、ざわざわと自在に動く。  薄闇に異様な光景が生まれ、私は寒気がした。  ザアッと生ぬるい風が吹いた。  気がつくと少年の腕も一回り太くなっていた。幻覚ではない。エクリプスの両腕は、真っ黒な鳥の翼ではなく爬虫類(はちゅうるい)の前脚に似ていた。かろうじて飾りのような羽毛に覆われている。たくましくなった手先から凶暴な爪が伸びていた。 「!? だめだ、エクリプス! 君は鳥になってはいけない!!」  私は考えるより先に少年に向かって叫んでいた。けれど危険を(うった)える声は荒波にさらわれて彼には届かなかった。  少年は変身していく。(からす)なんて小さな(かしこ)い鳥ではなく、もっと巨大な何かへ。生まれてから十余年、その手に抱き続けてきた悪意が形になる。重心が低くなり、身体中に(うろこ)が生えていく。エクリプスの変わりゆく姿を見て、私は少年が望んでいた最も強い鳥のことを考えた。 「鳥」に(いた)る前の、地上の覇者。それは星を目指す者ではなかった。  太古の鳥は背中の裂け目から一枚の羽根を吐き出した。橙色に染まった西の水平線の上で鮮やかに舞う、ひとひらの瑠璃(るり)色の羽根。  あの女の子だ……。  海はごうごうと逆巻いている。青い羽根は強風に千切られることなく砂浜を(ただよ)い、狙ったように私の足元へ落ちた。よろよろと震える手で拾う。目玉のような孔雀の模様は、今の私と同じ恐怖の色をしていた。  エクリプスの背を見上げると、開かれた裂け目から悪意に満ちた黒いものが(うごめ)いている。見てはいけないもののはずなのに、私は逃げることができなかった。裂け目の向こう側に、暗い世界が広がっていた。 「ぁ……」  私は思わず声を()らした。見えたのはキラキラまたたく小さな光の(つぶ)。星空だった。  幻を何度も追いかけた。私の最期の記憶がそこにあった。  一瞬身を乗り出したとき。ざわざわした黒いものが突然無数の腕になり、いっせいに(おど)りかかってきて私の体を(つか)まえた。  星の明滅(めいめつ)のようにほんの刹那(せつな)の出来事だった。  黒い蝕手(しょくしゅ)は私を常闇(とこやみ)の底へ引きずり込んだ。
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