1人が本棚に入れています
本棚に追加
Ⅲ
家に帰ってきた。
雨に打たれて、濡れたコートについた水滴を払って、靴を脱ぐ。冷たい肌を擦り、浴室の電気をつけて、浴槽にお湯をはるスイッチを入れた。コートを脱ぎ捨て、身につけていたものを一枚ずつ脱いで、棚に一枚だけ残っていた洗濯済みのバスタオルを取り出すと、もう何も考えないで熱いシャワーを浴びるために浴室のドアを閉めた。
十年経った。二十五歳になった。
十代の頃の出来事は思い出さない。それほど生きるのに必死だからだ。あの頃、思い描いていた大人の定義は社会人になって、何の役にも立っていない。体を温めてからメイクを落とし、全身を洗って、一日中縛っていた髪をとかしながら洗って、半分溜まった浴槽に下半身を沈めた。金曜日。大きく息を吐き出す。
たっぷり三十分、浴室の天井を眺めてから、腰を上げた。
バスタオルで温かい水滴を拭き取り、スマートフォンの画面を一度確認してから、リビングに移動して、貸家の小さな部屋の隅にあるタンスから下着とパジャマを取り出し、着替えた。ドライヤーのアダプターをコンセントに差し込み、髪を乾かし始める。
スマートフォンに連絡があったのはお母さんだった。
つい先日、別れた彼氏との結婚を信じているので、その念押しだろうと思っている。面倒くさい。鏡の前で動かすドライヤーとそれに合わせて右に左に広がる茶色の髪。私はゆっくり髪を乾かし、軽いストレッチをすると、玄関に転がっているバッグと食材の入ったスーパーの袋を持ってきて、夕食を作った。何も考えずに切った野菜とお肉を炒め、塩コショウを振っただけの一品。冷凍のご飯を解凍して、ついでに熱いお茶も淹れる。ささやかな食事。作っただけ偉い。
「あんた、電話くらいすぐ出なさいよ?」
「だって。今、ご飯中」
「それよりこの間の彼氏さんはいつ連れてくるのよ」
「ああ。訊いとくよ」
「その台詞。前も同じだったわよ」
「そうだっけ?」
「だから。ちゃんと籍を入れて、二人で暮らしたらいいじゃない?」
「はいはい。分かりました。てか、私疲れてるし、ご飯中だから。もう切るね」
「あ、ねえ! 愛莉!」
スマートフォンの通話切断ボタンをタップして、ご飯を食べ切り、片づけをしながら、ふと大きな溜息を吐く。もう限界だ。また限界だ。明日はカラオケで発散しないとやっていられない。鼻歌を口ずさみながら、家事を終わらせ、脱ぎ捨てた洋服を全て洗濯機に放り込んで、歯磨きをする。何気なしにテレビをつけると、音楽番組の放送時間で、懐かしの曲を紹介していた。数秒で新曲紹介に切り替わってしまったが、一時、十代の記憶に触れたような心地がする。
歯ブラシをくわえたまま洗面台へ行き、口をゆすぎながら、脳内でテレビの懐かしの曲を再生した。中学時代に流行った楽曲。Aメロは覚えている。サビも当然覚えている。すらすらと流れるメロディと歌詞。就寝の準備を整え、テレビを消して、部屋の灯りを暗くして、ベッドに潜り込む。暗い天井。そこで最後のフレーズに辿り着いた。
何年先も一緒に居よう。そんなありきたりな歌詞で曲は終わる。
最初のコメントを投稿しよう!