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「はい! ここは受験の必須公式だから覚えておくように! じゃあ、今日は以上です。次週は小テストを行います。簡単な問題なので、再確認の意味も込めて、頑張って行こう! いいか? 高校受験は人生のゴールじゃない。大学、社会人へとつながる一つ目のステップだ。そして、受験に成功するかどうかも小さなステップの積み重ねだと思って欲しい。まずは小テスト、頑張って行こう!」
私は煩いなと思いながら、テキストとノートをバッグにしまった。髭を生やした予備校の講師が熱く語る話が終わるのを待って、席を立ち、部屋を出た。他の教室も生徒が出てきて、混雑するが、するするっと人の間を抜け、建物の外へ出る。
ああ、歌いたい。そう熱望する。でも、現実は理想を叶えない。
私は高校受験に備えて、中学三年生の五月から予備校に通い始めた。スタートが遅れていると思うけれど、仕方がない。いつもならお母さんが車で迎えに来てくれるが、今日は地区会の集会だそうで、バスを使うことになった。バス停で待つこと、五分。バスに乗って下車まで十五分。降りて、家に向かって歩き始める。
「あ、君。大丈夫?」
けれど、バス停から少し離れたところで、知らない中年の男性に話しかけられた。視界に入っていたというだけの記憶だが、同じバスから降りた乗客だった。
「は、はあ」
私が困って、曖昧な返事をすると、男性は立ちどまっている私に詰め寄りもせず、両手を横に振って、怪しい者ではない、とアピールをした。
「いや、さっき。バスで。君。盗撮されてたんだよ」
「えっ! え、え。ほんとですか?」
途端に怖くなって、息が苦しくなった。
自分の画像や動画がネットやSNSで拡散でもされたら、もう生きていけないと思ったからだ。どうしよう。この言葉だけを頭の中で連呼した。
「でも、僕。慌てて、やっちゃいけないんだけど、その盗撮してた学生っぽい人。スマホで撮ったんだ。だから、その。このまま警察行きませんか?」
「え、はい」
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ」
「えっと。じゃあ。あっちに交番あるからそこへ」
「はい」
「あ、でもその前に。犯人の画像、確認しておいた方がいいかも」
「まあ。そうですね」
私は一刻も早くこの事件を解決したかった。安心したかった。
男性は一定の距離を保ちながら、近場の公園で確認してから交番へ行こう、と提案してきた。その提案内容は怪しかったが、私にその提案を断る余裕はなく、男性の丁寧なエスコートで、公園に入り、ぽつんと置いてあるベンチに向かった。
昔から遊び慣れた公園だった。砂場や滑り台で遊ぶ子どもを見守れるように置いてあるベンチ。私が座ると、男性も隣に座った。
「あ、えっと。これです」
男性が手に持っていたスマートフォンを見せてきた。
けれど、それは電源の切れた暗い画面だった。
「こ、これは?」
その瞬間、私は抱え上げられ、ベンチの裏にある草むらに押し倒された。
嗅いだことのない匂い。男性は私のお腹に馬乗りになった。
「静かにしろ。すぐ終わるから」
体が恐怖で動かない。大人が思っている以上に、この世の中のことを理解しているつもりだったのに。そのことには少しの自信を持っていたのに。私は今日、ここで犯される。
考えるより先に涙が出た。男性の手が私の体を触り始める。
けれど、次の瞬間、シャッター音が耳に飛び込んできた。
それは男性ではなく、ベンチの上に立って、私と男性の姿を目撃している人が手にしているスマートフォンの音だった。
私はその目撃者の顔を知っている。
「おっさん。犯罪だよ。それ」
目撃者は山本佑駆だった。
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