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腕に巻かれた時計を見ると、午前0時を10分も過ぎていた。予定していた時刻を過ぎた焦りよりも、早く男の元から離れたい一心で、長い階段を早足で駆け下りた。夜に侵食された階段は暗くて、どこまでも下へ続いているみたいだった。このまま永遠に、出口には辿り着けないような気さえした。
長いスカートの裾をちょっと持ち上げて、ヒールを響かせて駆け下りる私は、まるでシンデレラみたいに滑稽だった。幼い頃繰り返し読んだおとぎ話のお姫様は、みんなきらきらと輝いていたけれど、今の私は、比べるのもためらわれるくらいに汚れているような気がした。いくらドレスで着飾っても、この体に染みついた、ずるい男のにおいは消えない。
マンションから出ると、黒い空からはぽつりぽつりと心もとない雨が降っていた。深夜の街はひっそりとしていて、まるで世界に私ひとり取り残されているみたいだった。分厚い雨雲を見た途端、慌てて階段を駆け下りてきたことが馬鹿らしく思えて、私は大きく深呼吸した。加速していた動悸を正常に戻し、静かな街をぼんやりと眺める。そうすると急に、熱が冷めたように冷静になって、何であんな男から逃げようと思ったのか、どうして自分が走っていたのかすら分からなくなった。ガラスの靴を落としたって、あいつが追いかけてくるはずはないのに。
ふと見ると、少し離れたところに、黒い車が停まっていた。静かな道路にぽつんと取り残された車は、仏頂面で、恨みがましく、待ちくたびれたと言わんばかりに、のっそりと私を待ち構えていた。
私はゆっくりと歩き出す。弱い雨が、容赦なく体を濡らしていく。きっとこうして歩いていれば、雨が男のにおいを消してくれる。誰にも汚されていない、まっさらな体に戻してくれる。偽物の恋心も、飴玉のように溶かしてくれる。早く、早く。魔法よ解けろ。
運転席のドアが開いて、ひとりの男が車から出てきた。真夜中の闇に同化した真っ黒な髪が、雨の雫で湿って、少しずつ光を帯びていく。黒いジャケットを脱ぎながら、早足で私の元へ向かってくる。何年も共に過ごしてきたはずなのに、外で見ると全然知らない男のように見えるから不思議だ。美しいその男が歩く様を、いつまでも眺めていたくて、わざと足をとめてみた。
その男、群青が足を動かすたび、道路の水たまりがぱしゃぱしゃと跳ねる。暗い空を映した水面が揺らいで、波紋が広がるその様子を、私はうっとりと眺める。雨を纏った、私だけの王子様。私の、私だけの、運命の人。
「お帰りなさい、乙葉」
低い、落ち着いた声でそう言って、群青は私の頭にジャケットを被せた。
「ただい、ま」
私は小さく頷いて、狭くなった視界から群青を覗いた。雨のせいなのか、群青は泣き出しそうな顔をしていた。
この大人は私を迎えにくるたびに、子供のような顔をする。たった数時間離れていただけなのに、まるで何年も別れていたみたいに再会を喜んで、ほっと胸を撫で下ろす。そして、懐かしさと愛しさを含んだように微笑むのだ。その弱い表情がどうしようもなく好きで、もっと困らせてみたいと思う。その瞳から、小雨のようにしとしとと涙が溢れるその瞬間を、見てみたいなんて思ってしまう。
誰もいない街を、息を潜めて歩いた。いつまでもこうしていたいと思った。こうして、ふたりきりで、生きていきたいと思った。絵空事だと分かっていても、未成年の私は、まだしつこく夢を描いてしまうのだった。
助手席に座ると、濡れたスカートが肌に張りついて気持ちが悪かった。運転席の群青が、そっとタオルを差し出してくる。私はそれを受け取って、ジャケットを後部座席に放り投げた。書道みたいに念入りに、あますことなく、濡れた体を拭いていく。水分と共に、あの男の残り香も消えるよう、強く、強く。
一通り濡れた部分を拭き終えると、疲労が息となって口から漏れた。群青と会って、ようやく私は「乙葉」に戻ることができたのだ。その安堵感で、顔の筋肉が弛緩していくのが分かった。
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