シエルの同期は馬鹿である。

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 トレハースの家に着くと、彼は居間のソファを顎で指した。その拍子に長い髭がひょこひょこと揺れる。 「ほれ、娘さんはそこのソファに寝かしてやれ。ベッドもあるんじゃが、ジジイのは嫌じゃろうて」  その指示に従い、キールはそっと優しくシエルをソファに下ろした。それから自分の上着を脱いでシエルの身体に掛けてやる。 「若造、お主はこっちじゃ」 「いや、俺はいい。それよりも爺さん、シエルのことを早く楽にしてやってくれないか」  ソファの後ろにある食卓に座るように促されたが、キールはゆるく首を振って断る。  キールの断りを気にした様子もなく、トレハースは卓上のカップに湯を注ぐと口を開いた。 「まぁそう焦るでない。物事には順序というものがある。順番を見誤れば余計に複雑になるだけじゃ」 「そう言ったってな爺さん……!」 「まずは、お主がここに来た本来の目的を果たさねばならん。娘さんはその後じゃ」 「…………」  確かに、ここに来た本来の目的はキールの記憶を取り戻す手がかりを掴むためだ。今、シエルのことをなんとかできるのは目の前のトレハースしかいない。その彼の言うことに大人しく従うしかない自分に、キールは内心舌打ちした。  トレハースはお茶を啜りながら、ジトっとした視線をこちらによこす。 「おーおー、悔しそうな顔をしよってからに。わしだってむさ苦しいお前の相手なんてしたくないわい。早くあの娘さんのところに行きたいんじゃ」 「……俺は何をすればいいんだ?」 「お主はじっとしておれ。ふむ、まずは頭の中を見てみようかの」  ぎしりと椅子をきしませながら席を立つと、トレハースはキールに近づいて彼の額に手をかざした。それから何か、呪文のようなものをブツブツと呟いている。  キールは目の前に立つ老人に訝しげな視線を向けた。 「こんなので分かるのか?」 「うるさい、黙っとれ。お前のような単純明解な馬鹿と違って、私の魔術は複雑なのじゃ」 「……そーかよ」  トレハースの無遠慮な物言いにムッとしつつも大人しくされるがままになっていたキールだが、ふと、額の方に暖かい何かに触れられる感覚があった。 「おっ、あったあった。……ふむ、ほぉ〜ん……成る程」 「なんか分かったのか⁉︎」 「ええい、黙っとれ。落ち着きのないやつじゃ」 「…………」  そのまま数分経った後、トレハースは額にかざしていた手を下ろした。  そして、なんでもない事のように冷静に言う。 「よし、分かったぞ。お主の記憶、元に戻る」 「なっ、本当か⁉︎」 「うむ」  目を見開いて詰め寄るキールに、トレハースは深く頷く。 「そもそも、お主は記憶を失ってなどいない」 「……何?」 「何かの弾みに記憶に鍵がかかってしまっただけじゃな。分かりやすく言えば自分で自分の記憶を封じたといったところじゃ」 「俺が自分の記憶を封じた……?」 「通常であれば、何か辛い経験や恐ろしい思いをした時、そういうことが起こるんじゃが、お前の場合は違うぞ」 「どういうことだ」 「お前の場合は、ただの偶然じゃ」 「……頼む、もう一度言ってくれ」 「だから、ただの偶然じゃ」 「…………」  キールは黙って目の前の老人を見る。白髪から覗く瞳の色は、嘘を言っている人間のものではなかった。 「……ふざけてないよな?」 「当たり前じゃ! むしろ私がお前に聞きたいくらいなんじゃぞ! こんな馬鹿みたいな理由では、私も立つ瀬がないわ!」 「つまり、崖から落ちた弾みで、俺は自分で自分の記憶を閉じ込めたっていうのか?」 「そうじゃ。おそらくぶつけ所が悪かったのじゃろう。頭の中の記憶を司る部分が狂ったんじゃ。その証拠に、全て忘れているのではなく、断片的にポロポロと思い出すこともあったのではないか?」  そう言われてキールはハッとする。確かに、自分のことや家族のこと以外、友人に上司や同僚、仕事のことの記憶は曖昧だったはずなのに、何人かに1人は顔を見たことがあったり、名前だけ知っていたりと断片的な記憶はあった。 「それに一番は、あの娘さんに対するお主の態度じゃ。書状には付き添いとして同僚が同行すると書いてあった。あの娘さんのことだろう?」 「あ、ああ……シエルは俺の同期だ。俺はまだ記憶が曖昧だから、一昨日から一緒に行動して色々教えてもらってたんだ」 「ふん。記憶がないくせに、お主の彼女を見る目は一昨日知り合った同僚を見る目ではない。愛しい者を見る目じゃ。……恐らく感情が記憶を追い越しておるんじゃな」 「感情が、記憶を……」  ソファに横たわるシエルをじっと見る。泣き腫らした顔を見ていると胸が痛んで、もっと笑った顔が見たいと思う。シエルの笑顔を見ると、何故だかホッとするのだ。 「さて、そこで漸くあの娘さんのことじゃが」  トレハースの言葉にハッとする。キールは慌てて視線を戻した。 「やっとか! シエルを早く助けてや——」 「ええい! 話は最後まで聞け! いいか、お主の記憶の鍵はおそらくあの娘さんじゃ」 「シエルが俺の記憶の鍵……?」 「そして、お前が記憶を取り戻さん限り、あの娘さんの心はまた壊れるぞ」 「……っ、」 「根本的なところを解決せねばならんのじゃ。ある意味、お前よりも娘さんの方が重症かもしれんな」  黙り込むキールを横目に、トレハースはまた茶を啜った。「喋りすぎると喉が渇くわい」とボヤく。 「まず状況の確認じゃ。森に入るまでには娘さんには何の異変もなかったのか?」 「ああ、普通に会話も出来た。疲れた様子はあったがそれは長時間の移動によるものだと思う。おかしくなったのは……多分、俺が落とし穴に落ちてからだ」 「……待て、穴にのか?」 「そうだ。けど、子供騙しみたいな穴だったし、第一あれを作ったのは爺さんじゃないか」 「今は穴のことはどうでもいい。お前が何かにという事実が重要なんじゃ」 「俺が落ちた事実?」 「……ふむ、お前が崖から落ちた時も、娘さんはその現場にいたか?」 「ああ、同じ班に所属して行動を共にしてたらしい。確か、俺のことを一番最初に知らせたのもシエルだったそうだ」 「……成る程な、ではその時もきっと娘さんはお主が崖からのを見たんじゃろう」  トレハースは自身の豊かな髭をさわりながら言う。 「お主が穴に落ちたことで、娘さんはお前が崖から落ちた光景を思い出したんじゃろうな。そして、それがギリギリの所で保っていた娘さんの心を壊すきっかけになった……まあ、こう考えるのが自然じゃろうて」 「シエルは、そんなに傷ついていたのか……?」 「この大馬鹿者! 好きな男が死にかけた上、自分のことを忘れていたんじゃぞ! そりゃ傷つくに決まっとるわい。……よくもまあ、これほどの悲しみを今まで誰にも悟らせなかったものだ」 「……分かるのか」 「抱えきれなくて身体から滲み出ておる。負の感情は周りに蔓延しやすいでな、私も魔術師のはしくれ、人のこういった感情を感じるのじゃ」 「……そうか」  キールは唇噛み締めたまましばらく黙り込む。  それからソファに横たわるシエルに近づくと、その手を握った。小さくて、それでいて少しかさついた、剣ダコのあるこの手は、彼女の日頃からの努力を思わせた。  ……この手を、ずっと前から自分は知っている。 (……シエル、ごめん。俺のせいで、お前を苦しめている)  しばらく握った後、キールはゆっくりと立ち上がり、トレハースに向き直った。  その藍色の瞳には強い光が宿っている。 「シエルを助けたい。記憶を思い出したいんだ。……俺はどうすればいい」 「ふむ、そうじゃな……少々荒くなるが、手っ取り早いのは娘さんの記憶を見ることじゃろう」 「そんなことできるのか?」 「できる。私を誰と思うておるのじゃ。しかし、見るのはお主が事故に遭った後の記憶のみじゃ。それ以上はお主にも娘さんにも負担がかかり過ぎる」 「なんでもいい、思い出せるのなら! シエルを助けることができるのなら!」 「結構な心がけじゃが……いささか暑苦しいなお主」  トレハースはフッと1つ息を吐くと、シエルのそばに近づいた。そのまま額の上に手をかざしてブツブツとまた何か呪文を唱え始める。  しばらくして、その彼のこめかみに玉の汗が滲み始めていることにキールは気がついた。 「苦しいのか? 爺さん」 「……人の記憶を覗くのじゃからな、抵抗がきついのじゃ」 「俺の時は平気そうだったが」 「お前は単純馬鹿じゃからな、つくりもシンプルで抵抗らしい抵抗もなかったぞ」 「…………」  それが良いことなのか悪いことなのかは、キールは敢えて聞かなかった。 「……よし! 見つけたぞ! 私の腕を掴め!」
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