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「……よし! 見つけたぞ! 私の腕を掴め!」
言われるがまま、キースはトレハースの腕を掴む。すると、スウッと膜のようなものに包まれる感覚が起こった。
次の瞬間、何か強い力に勢いよく引っ張られる。
(……っ、)
反射的に閉じていた目をゆっくりと開くと、まず目に入ってきたのは激しく打ち付ける雨だった。それなのに、雨に打たれている感覚はない。
『——キール!!!!』
突然、自分を呼ぶ声にキールは驚いてそちらを見る。
そして、さらに大きく目を見開く。
『キール!! キール!!』
ずぶ濡れのシエルが、這いつくばって崖の下に向かって何度も叫んでいたからだ。
「なっ……シエ——」
「呼んでも聞こえんぞ」
聞き慣れた声に驚いて左を向くと、トレハースがそこにいた。自分と同じように雨に打たれている様子はない。
「あくまでもこれは過去の記憶。私たちは居ないものであり、干渉もできない。ただ、見続けることしかできないのだ」
「…………」
「……どうやらここはお主が崖から落ちた直後の記憶らしいな」
叫び続けるシエルの周りに人が続々と集まり、崖から落ちた自分を救助する支度を始めている。
『班長! キールが!』
『分かっている! 地面に足をとられたんだ!』
『他の班にも救援を!』
迅速に自分を助け出す用意が進められているのを、どこか歯がゆい気持ちでキールは見つめる。たとえ記憶がなくとも、落ちたのは自分だ。自分が皆の手を煩わせている。その事実が悔しかった。
「……娘さんは、最初こそ取り乱しておったが、その後は思ったよりも冷静じゃな」
トレハースの客観的な意見にキールは頷く。
「……シエルは、いつだって冷静であろうとするんだ。どんなに動揺しても、どんなに傷ついても、人前では平気そうな顔をする」
「……ほぉ」
トレハースの物言いたげな視線を感じる。何か言いたいことがあるなら言えと、キールが口を開こうとした瞬間、ぐにゃりと視界が揺れた。
「なんだ⁉︎」
「おそらく次の記憶に移るんじゃ、備えろ!」
「ぐっ……」
ぐらぐらと揺れる視界に目眩のような感覚を覚える。
一瞬の暗闇の後、今度は眩いほどの光に包まれた。目を細めてその光をよく見ようとした瞬間、気づけば白い部屋の中にいた。
「……ここは、医務局か?」
次の記憶は、どうやら城の医務局の小さな病室のようだった。先ほどの眩い白は病室の壁と床の色だったようだ。
「見ろ、娘さんがおるぞ」
示された先にいたのは、白いベッドの脇に立ったシエルと、そのベッドの上に横たわったキール自身だった。
どうやらここはキールが助かった後の記憶らしい。
病室は個室なのか、小さな部屋にベッドが1つだけだった。
『……キール、早く目を覚まして』
シエルが呟く。か細くて、震えた声。ほんの一瞬気を抜けば、聞き逃してしまうようなそんな声だった。
『キール……死なないで……』
肩が小さく震えている。それを見ると、落とし穴のところで見たシエルの泣き顔がキールの脳裏によぎった。
胸が痛くて、今すぐ走って行ってあの小さい背中を抱きしめたい衝動に駆られる。
「……なぁ爺さん」
「なんじゃ」
「シエルに近づいてもいいか?」
「……触れられんぞ」
先程の考えを読まれたのかと、思わずドキリとする。どうやらトレハースには何もかもがお見通しのようだ。
「分かってる。……ただ、近くにいたいんだ」
トレハースが無言で頷いたのを合図に、シエルにそっと近づいた。
シエルは横たわったまま動かないキールの手をそっと両手で包むように握り、何度も何度も小さな指で優しく撫でていた。
一方で、握られた過去の自分自身の手はピクリとも動かない。シエルに触れたい今の自分がその光景を見ていることが、なんだか皮肉みたいに思えた。
『……キール、私の告白の返事、任務が終わったら聞いてくれるんじゃなかったの』
「……っ!」
その言葉に、キールは目を見開く。
ぽつりと泉に落とされた一滴の雫みたいに、シエルの言葉がキールの中に波紋となって広がっていく。まるで霧が晴れていくような、頭が鮮明になっていく感覚があった。
(そうだ、俺は任務の前日シエルに告白を……!)
どんどん記憶が頭の中に流れ込んでくる。
前々から機会を伺っていたのだ。あの日は夜の巡回で、偶然2人きりになった。今しかないと思った。そう思ったら気づけば想いを口に出していたのだ。
夜空を背に、驚いた顔をするシエル。それから、呆れた顔でこちらを見るシエル。それもそうだろう、告白の返事の保留なんて、普通はされた方がするものだ。
けれど、その呆れた顔がいつもより赤い気がして、少し、いや大分期待したのだ。
……それだというのに、自分は一体彼女に何をした?どんな思いをさせた?
どうして、こんな大事なことを今まで忘れていたのだろう。
『私、キールのこと……』
シエルが、ゆっくりと口を開く。
その時、視界がぐにゃりと歪み出した。
「なっ……!」
「時間じゃ! 次の記憶に移るぞ!」
叫ぶトレハースの言葉とともに、目の前の光景が——シエルがどんどん遠ざかっていく。それが過去の記憶であることも忘れて夢中でキールは手を伸ばした。
「待て! シエル! シエル!」
「馬鹿者! あれは干渉できんと言うておろう! おそらく次で最後じゃ、備えろ!」
「クソッ……! シエル!」
叫び虚しく、シエルの姿は闇の中に消える。キールは伸ばした手を力なく下ろした。トレハースは静かな目でただそれを見つめる。
「……思い出したか」
「……ああ。多分、ほとんど全部……」
「じゃが、娘さんの記憶はまだ終わらんぞ」
「え……」
「次で最後と言うたじゃろう、ほれ」
顎でしゃくられた方向を見た瞬間、キールはまたしても病室に立っていた。先程と全く同じ部屋だ。
「戻ってきたのか……?」
「時間が進んだのじゃ。ほれ、娘さんの格好がさっきと違うじゃろ」
確かに、シエルの身につけている衣服が少し違う。それに、シエルの様子も先程より明るいように見えた。
『あ……! キール? 起きたの?』
優しげなシエルの声が病室に響く。彼女の口から告げられたその言葉に、キールは驚いた。
「どういうことだ……?」
「ほー、どうやらお主が目を覚ましてから数日経った頃の記憶のようじゃな」
フサフサとした髭を触りながらトレハースが言う。
シエルに声をかけられた記憶の中のキールは、ベッドの上で少し身じろぎした。
『ゔ……』
『よかった……3日前に目を覚ましたって聞いてたんだけど、私が来た時はいつも寝てたから……』
シエルは心底安心したような様子だ。嬉しそうに笑うシエルを見ながら、キールはどこか胸騒ぎのようなものを感じていた。
(あ……)
この続きを、自分は知っている。
『なぁ……』
『ん?何?』
この言葉の先を、知っている。
「——やめろ!言うな!」
過去に向かって叫んでも、意味などないのに。
『なぁ……あんた誰だ?』
『……え?』
シエルの、動きが止まる。浮かべていた笑みが、段々と消えていく。
少し掠れた、だるそうな声で過去のキールは言葉を続ける。無知であるが故に、目の前の大切な存在を傷つける。
『……見たことない顔だが、もしかして昔会ったりしてたか?』
『…………』
『……悪い。……俺、慣れない人の顔と名前覚えるの苦手でさ』
『……そう、ですか。こちらこそ、馴れ馴れしく、すみません』
希望が絶望に変わる瞬間とは、こういうことだろうか。シエルの瞳から光が消えていくのを、キールは歪んでいく視界の中で確かに見た。
キールは静かにうなだれた。
「……ああ、シエル……シエル……」
「……時間じゃ。戻るぞ」
ぐにゃりと足場が歪んでいく。
それが記憶の世界によるものなのか、自分自身の目から溢れ続ける涙のせいなのか、キールにはもう分からなかった。
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