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第一話
利吉は、幸せな暮らしをしていた。
江戸の大店の跡取りで、七年前に同業のお店から娘をもらい、五歳と三歳になる娘に、去年、念願の跡取りも誕生した。
妻のさとは物静かで、利吉の親によく仕えるよい嫁だ。
父は、今もかくしゃくと商いを取り仕切り、そつのない嫁のおかげで、嫁姑の仲もうまくいっている。
利吉も商いの一部を任せてもらえるようになり、使用人達にも目立った問題はない。
そう、利吉は果報者だ。それは、間違いないことなのだ。
□□□□
あの人は、どうしていつも溜息をついているのだろう。
さとにとって、利吉は良い夫だった。
親が決めた縁談だったけれど、父親が認めた通り、利吉は実直で申し分ない夫だった。
舅や姑も、跡取りを生んでからは、さとに特によくしてくれる。
だが、さとは、夫の溜息が気がかりだった。
「どうなすったんです?」
一度、夕暮れに、庭をぼんやり見ている利吉に尋ねたことがある。
「商いのことで、少し考えごとをしていてね」
利吉はひっそりと微笑んで、さとが淹れた茶を美味そうに飲み干した。
その笑顔と姿はいつもの夫だったから、さとは安堵したのだけど。
年々、溜息は増えていくように思う。
ドンッ。
店先で、手代がうっかりぶつかってしまった相手は、浪人風の侍だった。
随分と背が高く、体はがっしりとして、腰に大小を差していた。
遠目に見ていたさとでも分かる、よい男振りの侍だ。
「これはご無礼をいたしました、お侍様……」
取り成すように間に入った利吉は、顔を上げたまま固まった。
浪人も目を見張ったままだ。
そのとき、古参の番頭が声を上げた。
「これは、田村の若様ではありませんか!」
田村の若様?
どうやら、昔、世話になった旗本の若様だったらしい。
浪人はというと、あれこれと話しかける番頭に戸惑ったように答えながら、先を急ぐので、と、足早に立ち去って行った。
お咎めもなく済んだことに安堵したが、さとの胸に小さなしこりのようなものが残った。
利吉達を見送って、目をやった先に、あの浪人が立ち止まっているのに気づいた。
浪人は店の方を見ていなかった。ただ、利吉を見ていたのだ。
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