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「髪の色、染めようかな」
彼は独り言のように、急にポツンと言い出した。
えっ?と聞き返すと、彼はふっと苦笑いをこちらに向ける。
「目立つだろ、この色じゃ。だから黒くしようかなって。せめて暗めの茶色とかに」
言いながら、自分の前髪をいじっている。そして何となく気恥ずかしそうに言葉を押し出した。
「春乃の相手が、あんまり浮ついた男だと思われたくないし」
なるほど。この人は自分の髪の色を気にしているのか。全体的に脱色した焦げ茶色。加えて日焼けした肌の色。彼を深く知らない人から見れば、一見チャラついた人に映るかもしれない。実際、私も初めて会ったときはそう思った。
色あせた茶髪が地毛と知った時は正直驚いた。それも日焼けとは。そして急に興味が湧いてきた。この人は、どんな人生を突き進んできたのだろう。これから、どんな道を行くのだろう。
今まで、髪の毛を染める、なんて言ったこともなかったから意外に思えた。しかし、明日は特別な日なのだ。両親に初めて彼を紹介する日。メールで簡単には伝えたものの、特に写真を見せたりした訳ではないので、明日が本当に初対面となる。
私は束の間の空白のあと、思わずふふっと笑った。
「あなたが染めたいなら、そうすればいいと思うよ。私だって、自分の髪質が嫌で縮毛してるし」
そこまで言うと、私は真っ直ぐに彼と向かい合った。
「でも私は、その色好きだよ」
そう言うと、彼は、はっとした表情で顔を上げた。
私は微笑んで言葉を続けた。
「だって、その色は努力の証でしょ?」
私は、ゆっくりと立ち上がり、彼の隣に腰を下ろした。そして、伸びるのが早い彼の前髪を、そっとなでた。
「太陽の下で、どんな暑い日もボールを追いかけ続けた証。この色は、あなたの誠実さを表している。どんなに辛くて、くじけそうな時も、絶対に逃げ出さない。だから自分の弱さとも、怖がらずに向き合える。そんな、あなたの色だから」
「春乃・・・」
彼は、そっと、頭の上の私の手を取ると、数秒ほど私の目を見つめ、それから両手で抱き寄せた。おなかの子に障りないように、やさしさと温かさが感じられた。
少しの間、そうしていた。
ふと思い出したように、私が顔を上げ、彼は再び私の顔を見た。
「だけど、この前髪は、少し切ったほうがいいね」
私が真面目な顔でそういうと、彼はいたずらな顔でニヤリと笑った。
「もちろん春乃が切ってくれるんだよね?」
「ダメ、私は切るの下手だから。ちゃんと美容室行ってきて」
そう言いながら、二人は笑いあった。
カーテンの隙間から、きれいな三日月が覗いている。大切な人と過ごすひと時を照らす月は、いつにも増して美しく見える。「今夜も月がきれいですね」なんて、言わなくても分かる。
大丈夫、この人となら。
どんなに辛いことも、きっと乗り越えていける。
月のきれいな夜が、この先もずっと訪れますように。
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