残照の瞬間

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第 1 話       1  彼は、庭の隅の真っ暗な納屋の中で、心細さに震えていた。  ちょっとしたいたずらのつもりだったことが、思わぬ父の怒りを買い、彼は納屋に入れられたのだ。  あたりはしんと静まりかえっていて、虫の声さえ聴こえない。  夏の盛りのはずなのに、彼は歯の根が合わないほどの寒さを感じていた。  外の世界は全てが死に絶えてしまったのだろうか。  八歳の少年にとって、真夜中の静けさは、 父の怒りと同じくらいの恐怖だった。  彼は取り残され、このまま忘れ去られていくような恐ろしさで震えていた。  目を見開き、闇を見つめていた。  彼は本能で予感していた。  小屋の外を、邪悪な何かが彼を探して歩き回っているのだ。  闇よりもなお暗い何かが、しのび寄ってくる。  声を出して、助けを呼ぼうか。  闇は彼を()し潰しそうで、彼は息苦しくなった。  何故、あの時、叫び声をあげなかったのだろう。  後になって、彼は何度も思い返していた。       2  その夜、小田原で起きた一家惨殺事件は、終戦直後の物不足の時代の、人々の心の荒廃ぶりを映し出したような事件だった。  夫婦と娘ひとり、寝たきりの老母が強盗によって刺し殺されたのだ。  犯人は捕らえてみれば顔見知りで、出入りしていた商家の若い男だった。  夫婦が心配りをし、ご用聞きに来る度に菓子や果物を持たせてやったりした親切が仇になった。  若者は、その家が戦前は資産家であったという噂から、夜中に押し入ったのだ。  事件は、朝になって訪ねて来た隣家の主婦によって発見されることになった。  動転して叫び続ける主婦が、その家のもう一人の家族のことをすっかり忘れてしまったのも、無理ないことだった。  家の中は文字通り血の海で、戦火をくぐってきた彼女にとっても、現実とは思えないほどの修羅場だったのだ。  現場検証を行っていた刑事のひとりが、納屋の中ですっかり寝入っている少年を見つけた。  母屋で何が起きたかも知らない、安らかな寝顔だった。  柔らかな頬に流れた涙の痕が、強面(こわもて)の刑事の心さえ揺さぶった。  少年は、一夜にして肉親のすべてを失ったのだ。  温厚な父は、戦前は手広く会社経営していたが、今は病気がちで、戦地へも駆り出されず終戦を迎えた。  武家の血を引く母は気丈な女で、戦時中もその誇り高い生き方を変えようとはしなかった。  そして、父方の祖母は、もう四年も寝たきりだった。  妹は、少年よりニ歳年下の就学前で、毎日、彼が学校から戻ると、うるさいほどにまとわりついた。  仲の良いふたりはよく似ていて、近所でも評判の美しい兄妹だった。  少年はその夜、家族を失くしてしまった。  彼はこの世に、たったひとりきりになったのだ。  少年には、兄がひとりいた。  年の離れたその兄は、事件の四年前に戦地で生命を落としていた。  終戦を目前にした大陸の混乱の中で、真実はいったい何だったのか、今は知るよしもない。  兄の死の知らせを運んできた戦友は、彼が上官に憎まれ拷問の末に死んだことを告げた。  反戦思想を持っていた兄は、好戦派の急先鋒だったその中尉と、(ことごと)く対立し、 攻撃の標的になったというのだ。    兄は反戦主義者だったろうか。  少年の知っている兄は、父ゆずりの穏やかな 性格で、人のために犠牲になることはあっても、己のために誰かと利害を争って口論したり する姿は思い描けなかった。  その中尉は、生き延びて無事に帰郷した。  後に大陸での蛮行が暴かれ、戦犯に問われたが、それさえも彼はうまく切り抜けた。  好戦派の中尉の変わり身は早く、資本主義の中で短期間に財を築いたという噂だった。  その後、資金を生かして地元から立候補し、国政の中枢にまで登りつめた。       3  小田原一家惨殺事件で、生き残った少年の名は、海道隆行(かいどうたかゆき)。  彼が、その後の十年で学んだことは、忍耐だった。   後見人という名のもとに、海道家の遺産を 食いつぶそうとする人々。  彼らは、隆行に虫の死骸にたかる蟻の群れを想像させた。  犯人が顔見知りの男だったことから、あらぬ噂も流された。  美しいご内儀が、病気の夫の目を盗んで、出入りの若い男を引き込んでいたと。  痴情のもつれからの犯行らしい。  無責任な噂。  出どころは、犯人が助かりたい一心から、母に誘惑され、その後冷たくされた腹いせに犯した犯行だと主張したからだ。    隆行は犯人の男を憎んだ。  生まれて初めて、身体が震えるほど人を憎んだのだ。  噂にも耐えた。  噂の意味さえ理解できないほど幼なかった、その家の唯一の生き残りだった隆行。  それでも、顔の見えない人々の悪意には 敏感だった。    人の醜さばかりが目について、信じることさえも忘れてしまった。  隆行は生き延びるために、憎しみを心に降り積らせた。  とはいえ、まだ少年の隆行には、あらゆる意味で選択権はなく、親戚のひとりが後見人を買って出た。  隆行は、もともと明るい少年だったが、事件後は、気難しく愛想のない、可愛げのない子になった。  それも無理からぬこと。  世話する方も、世話される方も、我慢して石のようになるしかない七年間が過ぎた。  その頃、欲得なしに隆行の将来を案じてくれた男が、たったひとりだけいた。  警戒し、拒み続け、やがて隆行は男の親切を受付入れた。  父方の遠い親戚だという、牧園(まきぞの)だった。  父母、祖母、妹が死に、殺した犯人の男が生きているという事実。  兄が死に、兄を死に追いやった男は、新しい世の中を上手に生きているという事実。  その不条理を思うと、怒りで狂いそうになる。  隆行はやがて十八歳になり、後見人の手を離れることができた。  人一倍賢く利発な少年は、いつしか人目を引くほどの美貌を持った凛とした青年に成長していた。  彼が心の奥深くに隠し持った、激しい怒りと憎しみに人は気づかず、それに触れたとたんに驚いて離れて行った。  触れるもの全てを傷つけてしまいそうな、冷たい氷のかたまりを心に持っている。  他人を寄せつけず、誰にもたよることなく、 隆行は、見事なくらいに立派に成長して行った。  優しい心と、宝石のように美しい幼い日の思い出を、どこかに置き忘れたまま・・ 。 第 2  話 に続く・・・
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