残照の瞬間

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第 2 話       4  人と触れ合うこと、人に心を許すこと、誰かに惹かれること。   この十年間、何もかも、隆行は自分に禁じてきた。  その彼の(かたくな)な心のわずかなすき間に、入り込んできた人間がいた。  三谷佐和子(みたにさわこ)。  東京の大学で、隆行は佐和子と知り合った。  聡明で美しい佐和子は、隆行を惹きつけた。  自分の心に()いてきた憎しみが無意味に思えるほど、佐和子は明るくのびのびして、 気高く輝くばかりに美しい女性だった。  隆行の憎しみと怒りに満ちた暗い人生には決して訪れるはずのない、一点の(かげり)も持たない人だった。 —— 近づいてはいけない・・僕が触れただけで・・闇が・・彼女を傷つけるかも・・ ——    近づかないつもりが惹かれ、拒み続けながら 心の奥で隆行は渇くように佐和子を求めていた。    彼女との出逢いが、その後の隆行の人生を変えることになる。 「同情するのか? 僕に・・ 」 「同情? 」  佐和子は不思議そうに隆行を見た。 「だから、僕にかまうのか?・・君は・・ 」  隆行は、振り切ろうとしても、心の奥まで入り込んで来そうな佐和子を扱いかねていた。 「本当に私を拒絶したいなら、なぜ話したの?・・あなたの過去・・事件のことを・・ 」 —— そうだ。なぜ僕は・・彼女に打ち明けたのだろう・・同情が欲しかったのか?・・彼女を遠ざけるため?・・それとも・・彼女の歓心をかいたかったのか・・ —— 「もう、やめちゃうのは?・・ 」  佐和子の無邪気な口調に、揶揄(からか)われたのかと隆行は驚いた。 「え? 」 「もう・・充分でしよ? 十年も・・あなたは憎み続けたんだから・・ 」 「まだ足りない・・ 」  隆行はつぶやいていた。  まだ充分ではない。  自分に襲いかかってきた不幸。  自分からもぎ取るように奪われた、大切な人たち。  闇が(おお)い隠すようにして、失くしてしまった幸せな思い出。  十年間は、決して充分とはいえない。  その証拠に、事件の犯人は(いま)だに 死刑になっていない。  死刑でさえ、充分とはいえないのに。 「これからも、まだ憎み続けるの? 」  佐和子は言い、手に持っていた週刊誌を広げた。 「見て、ここ・・ 」  先週、組閣が行われた新内閣の顔ぶれが、雑誌のグラビアの見開きを飾っている。 「お兄さんを殺した人、ここに写っている・・この人でしょ? ニコニコしている。温厚そうに見えるわ。この人が、昔そんなに酷いことをしてきたなんて・・誰も想像もしないでしょうね・・ 」  佐和子の示した頁に載っているその中年 の男は、本当にあの時の中尉だろうか。  そう思わせるほど、男は晴れがましい舞台で威厳に満ち誠実そうに見えた。  「ペテン師だよ! 」  隆行は雑誌を払い落とし、男の写った頁を踏みつけた。  それでも怒りはおさまらなかった。 「この男にとって、あなたの怒りなんて何でもないのよ。彼はこうして選ばれて、ここにいる。国を動かす側にまわって・・彼は勝ったのよ。すべてを許されたと思っているでしょう。・・過去の罪など・・すっかり(つぐな)ったと(うそぶ)くでしょうよ・・ 」  佐和子の言った通りだ。  そのことがわかっても若々しくいるだけに、隆行は激しい怒りに身を震わせた。  佐和子は雑誌を拾った。  二度と、それを開こうとはしなかったが。 「この男が死ねばいいの? この男が罪を告白し、死んで罪を償えば・・ そして、刑務所にいるあの犯人が死刑になれば・・それでいいの? 」  ふいに突きつけられた問いに、隆行は答えられなかった。 「それで・・あなたの憎しみは消えるの? 」    佐和子はそっと壊れ物に触れるように、手を伸ばして隆行の髪に触れた。   隆行ははっとして振り向き、不覚にもその頬を涙が流れ落ちた。  憎しみに生きながら、涙を流す隆行の美しさに、佐和子は激しく心を惹かれた。  佐和子には、物語の中にしか存在しない聖職にある人のように尊く見えたのだ。 「ねえ、もう・・やめよう・・ 」  佐和子の柔らかな声は、何もかも、降り積もった憎しみも、果てしない淋しさもつつみ込むようだった。  あとから思えば、その時が海道隆行にとっての人生の分岐点だったのだ。 「・・いったい・・僕は・・ 」 「・・許さなくていい・・ 」  佐和子の言葉を、隆行は聞き違いかと思った。 「忘れればいい・・ 少しずつでいいから・・ 」  佐和子は、まっすぐな目で隆行を見つめていた。 「忘れるの・・すべて・・彼らも・・何もかも。過去も・・現在も未来も・・それから自分の心も・・ 忘れて生きるのよ・・ 」 —— 彼女は、聖母マリアか何かのつもりなのだろうか・・——  親しげな優しい言葉で、改心を迫るこの女性は、いったい何者なのかと。    この苦しみは理解してもらえない。  どうせ、ひとりで生きていくしかないのだと思いながら、一方で激しく心惹かれていた。  思ってもいなかった “ 忘れていい “ という言葉には、初めて聞く甘さがあった。    隆行は、佐和子を置いてひとりで帰って来てしまった。  牧園以外の誰かと、これほど長い時間を過ごしたのは、この十年間になかったことだ。  牧園以外、いや彼とさえも、あの事件について、自分の過去についてこれほど深く語ったことはなかった。  誰かと向き合うことは、誰かを拒み続けることと同じくらい、隆行を疲れさせた。         5  隆行が無視しても、佐和子は懲りずに彼を 追いかけた。  ()を上げた隆行がいつか必ず、振り向くのを予想していたとでもいうように、いつも佐和子は彼のそばにいた。  佐和子の姿がキャンパスに見えない日は、何か物足りない気がした。  いつしか隆行にとって、佐和子は大切な人になっていた。  心に降り積もった憎しみは、容易に消えることはなかったが、隆行は自分が少しずつ変わって行くのを感じていた。  それでも佐和子の言ったように忘れて生きられるとは、とても思えなかったが。  ただ、佐和子といると、心の奥深くがゆっくり暖かくなってくるような気がした。  誰かを愛することはまだできそうにもなかったが、優しい気持ちを抱くことはできるかもしれなかった。  佐和子との付き合いの中で、隆行の毎日は驚きの連続だった。  見方を少し変えるだけで、世界はこれほどにも光に満ちていたのか。  価値あるものがあふれているのか。  渇いた土が水を吸い取るように、隆行は受け入れていった。  生命の重み、生命の尊さ。  人の生命は、全て等しく価値がある。  大切な生命。  被害者である父母や祖母や妹の生命と、犯人の生命。  兄の生命と、兄を殺したあの男の生命。  それが等しく、同じ重さだということを納得するまでに、更に5年間の歳月が必要だった。  憎しみは、佐和子と生きることで瓦解して行った。  大学を卒業した隆行は、小田原ではなく、牧園の勧めで四国の彼の所縁(ゆかり)の土地に移り住むことになった。  日ノ御子(ひのみこ)川という川の近くに土地を求めた。  そこには、明治の素封家(そほうか)の遺した壮麗な屋敷があった。  牧園とふたりで住むには広すぎる洋館だった。  海道家の資産は、それであらかた無くなってしまった。    佐和子は一緒に行くことを望んでいた。  というより、それ以外の選択肢があるなどとは全く考えていないようだった。  牧園はそのことに反対したが、結局、隆行が先に折れ、牧園も承知して、佐和子と共に日ノ御子に移った。 第 3  話 に続く・・・
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