花岡 未来 ― 1 ―

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「ありがとうございました」  レジ前にてお客様が出て行かれるのを見送り、頭をあげてから、ふうと息をつく。  午前六時。たった今お帰りになったお客様でフロア内の席が全て空き、とりあえずの人心地をつく。夜も少しずつ開け始め、店内の窓からのぞくペデストリアンデッキにも、通勤だと思われる人影がちらほらと見え始めている。 私の勤務時間もあと一時間ほどであり、客足が途絶えたことも合わさってか急激に眠気が襲ってくる。私は別のフロアスタッフの女の子に声をかけてからバックヤードに下がると、漏れ出そうになるあくびをかみ殺しては大きく伸びをする。 「なんだい花ちゃん、サボりかい?」  そんな私を目ざとく見つけては、槙さんが声をかけてくる。ニヤニヤと開かれた口元が実にいやらしい。これで相手が私でなく、夕方シフトの女子高生たちであればセクハラで一発アウトな表情なのだが、残念なことに実際は私なので悠々セーフと相成ってしまう。 見れば、槙さんはフライヤーの油交換をしているところで、キッチンスタッフのユニフォームの上から大きなエプロンをつけ、両手にはゴム手袋をはめている。 「いやいやまさか。これから倉庫に行ってドリンクの補充分を取りに行くんです」 「なるほどね。でも、今さっきあくびしてただろ?」 「え?」  痛いところを突かれるが、そもそも相手が槙さんなので、それを取り繕う必要もない。なので私もにへらと笑い、歯を見せる。 「そこはほら、朝だし、やっぱり眠いじゃないですか」 「はは、確かに。普通はまだ寝ている時間だしな」  だからこそ、応える槙さんの表情も明るい。 「でもね、槙さん」キッチン入り口の業務用冷蔵庫に寄りかかる。「なんだか最近、体力が落ちてきた気がするんですよ。ちょっと前だったら仕事終わりにそのまま寝ないで買い物とか遊び行ったりとかできたんですけど――」  寄りかかったままずるずるとしゃがみ込み、私と話をしながらでも手を止めない槙さんを見上げる。 「やっぱりこれ、運動不足とかなんですかね?」  それでもしかし、見上げた先の槙さんは金だわしをフライヤーの内面でゴシゴシと鳴らしながら、「はは」と鼻で笑う。 「運動不足も何も」手を止め、ぐっと腰を伸ばす。「そんなん年取ったからに決まってるだろ」  何を当たり前のことを言っているんだ? 再び作業に取り掛かる槙さんの表情はそうも言っている。だからこそ私はカクンと首を項垂れ、深いため息をつく。 「ですよねえ。やっぱこれ、年取ったからですよね」 「まあまあそう落ち込むなって。俺からしたら花ちゃんはまだまだ若いし、なにより見た目は全然そんな歳に見えないしな」  そんな私の独白を槙さんは笑い飛ばし、むしろ槙さんこそ年齢を感じさせない腕っぷしで、新品の食用油が入った一斗缶を軽々と持ち上げる。うん、やはり槙さんこそどう見ても五十過ぎとは思えない。  パン、と両膝をたたいて立ち上がると、ぐっと腰を伸ばして気合を入れる。あと一時間、頑張って乗り切ろう。 「よし、花岡未来、今日も頑張ります」 「おう、その意気だ花ちゃん」  槙さんの立てる親指に、私も同じく親指を立てて答える。 「で、実際花ちゃんて今いくつなんだっけ? 三十?」  私は笑顔のままに挙げた手を下げ、つかつかとキッチンに入っていく。 「槙さん?」  もちろん笑顔は崩さない。首をかしげる槙さんに、ゆっくりと掌を見せると、やにわに振りかぶってはその背中に振り下ろす。 「まだ二十九です!」  一の位はまだしも、十の位は決して間違えてはいけない。飲み会の割り勘で四捨五入されるお勘定とは、同じ数字でもまるで重みが違うのだ。  ちなみにこのすぐ後、フロアまで響いた槙さんの悲鳴に全スタッフがキッチンに駆け付けるのだが、そんなのは些細なことなのでまるで気にする必要はなくて、私はすたすたと仕事に戻るのだった。
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