花岡 未来 ― 1 ―

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「ドリンク関連の補充は一通り夜のうちに済ませてあります。グラスの方はまだですけど、洗いはお願いしておいたのでもウォッシャーの方に上がっているはずです」  午前七時の少し前。私と入れ違いになる早朝スタッフの出勤を待って、引継ぎを行っていく。 「ダスターはどう? 補充してある?」 「あーそっちは補充してないですけど、まだしばらくは大丈夫ですよ。夜の子が補充していってくれて、そのあとあんまり来店なかったんで」  ちなみにダスターというのは主に卓を清掃するのに使う布で、特にディナータイムなどには各スタッフがあちこちに持って行っては置きっぱなしにするので、しばしば不足しがちになるものだ。 「今日は特にトラブルもなかったし、こんなところですかね?」 「うん、わかった。ありがとね、花岡さん」  一通りの伝達事項を伝えたうえで水を向けると、そのスタッフ――水島さんはにっこりと笑っては任せてとばかりに握りこぶしを見せる。水島さんは私よりも二つ年上なのだが、本人としては無意識なのだろうその仕草を、失礼だとは思いつつも可愛いらしいなと思ってしまう。ただ、そんな水島さんは私とほぼ同世代といっても既に六歳と三歳になるお子さんをお持ちのれっきとした母親であり、そんな所作が自然と出てくるのは、やはり普段から小さな子供と接しているからなのかもしれない。  なお、私はファミリーレストランのフロアスタッフという職に就きながら、それでも子供――いや、敢えて言うなら所謂ちびっ子が苦手である。理由は単純明快で、舐められるからだ。  どういうわけか、昔からそうなのだ。例えば極端な例でいうと、オーダーを取りに行った際に他のフロアスタッフの女性陣は抱き着かれたりするのに、私だけ蹴られる。お会計の際に手を振ると笑顔で振り返してくれるのに、私だけそっぽを向かれる。なぜ? 私だってちゃんとスマイル――さすがに百点とはいかないが、それでも七十点くらいはいっているはず――しているのに。  そして、そんな経験が何度か重なるに従い、私は思い至ったのだ。ああ、これはもう、舐められているのだな、と。なので、今ではもう、そういうものなのだと割り切ることにしている。小さな女の子に抱き着いてもらって、「お姉ちゃんかわいい」と言ってもらいたいなんて、これっぽっちも思っていないのだ。 「それじゃ水島さん、上がる前にゴミ捨て行ってきますね」  水島さんに一声かけてから、口を結んだゴミ袋片手にバックヤードの奥へと向かう。最奥の勝手口から外に出ると、そこから続く非常階段で一階へと降りていく。店舗はペデストリアンデッキ直通のため建物の二階フロアになるのだが、ゴミ箱は一階にある別店舗と共用のためだ。 階段を降り切ったところでその裏手に回り、階段下スペースに設置された大型の業務用ゴミ捨て場の蓋を開け、ゴミ袋を投げ込む。そのゴミ箱の後ろ側、網状のフェンスを一枚隔てた先はJRのホームであり、そこにはこれから朝のラッシュに差し掛かる時間帯ということもあって、どこぞのライブ会場と見紛うばかりの人で溢れている。そして、そのホームに滑り込んでくる電車の車内もまた同様だ。 そんな朝の一コマを尻目に、私はもうすぐ仕事終わりなのだと思うと、不思議と優越感が湧いてくる。もっとも、その現在進行形ですし詰めな皆様方が布団でぬくぬくとしていた時間に私はずっと労働に勤しんでいたわけで、冷静に考えれば本来優越感など去来しえないはずなのだが、そのあたり、人間の感情っていうのはまこと不思議で複雑である。 タンタンタン、とリズミカルに階段を駆け上がり、バックヤードに戻る。戻り際に時刻を確認すると七時を回っており、早速私は水島さんに声をかける。 「水島さん、もう時間なんで、私上がりますね」 「あ、うん、花岡さん今日もありがとうね」 「いやいや、私なんてたいしたことないですよ」  水島さんの言葉に何となく謙遜していると、なぜだか水島さんは若干食い気味に「そんなことないよー」と両手を前に出して、向けた掌をパタパタと振る。その仕草もまた、悔しいことに違和感なく可愛らしい。 「だって花岡さんいる日って、フロア側の仕込みとか補充とかほとんど夜のうちにやってくれているでしょ? 夜って人数少ないから、いろいろやること多いはずなのに」 「そうですか? でも、私じゃなくてもみんなやってますよね?」 「うん。確かにみんなやってくれているけど、その中でも花岡さんが一番丁寧にやってくれているんじゃないかな?」 「そうですか?」  自分としては特別なことをしているつもりはまるでないので、一番とか言われるとそれだけでどこか照れくさくなってしまう。 「だからね、私、毎週のシフトを確認して花岡さんと同じ日になっているとラッキーって思っちゃうんだ」  水島さんはなおもニコニコと笑っている。たいして私はといえば、嬉しいやら恥ずかしいやらで、笑ってはいるつもりなのだが、その実きっと微妙な表情になっていることだろう。  さて、どう返したものかと迷っていると、バックヤード内にチャイムが響く。私たちは条件反射的に上を見上げ、その視線の先では五番卓を示すランプが灯っている。 「ああ、オーダー入っちゃった」  言いつつも、水島さんはエプロンの前ポケットに入れてあるハンディと呼ばれる端末を取り出す。 「それじゃ花岡さん行ってくるね。お疲れ様」 「はい、お疲れさまでした」  互いに軽く一礼すると、水島さんはバックヤードを後にする。一礼してからフロアに出ていく水島さんの背中を見送ってから、私も踵を返して事務所へと向かう。中途半端に終わってしまった会話のせいでむず痒さは残ったままだったが、やはり褒められたとあってか、悪い気はしなかった。
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