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私がシフトに入ってから一時間ほど経過したが、ホールの仕事は順調に回っている。奈々ちゃんは新人だけあって時折ミスをやらかすことがあるのだが、今日に関しては先の一件もあってか、ホールを行く足取り一つとっても絶好調の一言だ。その背中に見やる私としては頼もしさを覚えるとともに、これなら今日は随分と楽できそうかな、なんて打算的なことも思ってみたりしている。
その後も滞りなく店は回り、平日の深夜帯らしく来店も少なめということもあり、普段なら溜まりがちなウォッシャー含め、かなり余裕を持った対応ができている。
そんな店舗状況も鑑みて、私は張り出されたシフト表を見ながら奈々ちゃんに声をかける。
「奈々ちゃん、ちょっといい?」
「はい、なんですか?」
来店が止まっていたこともあって手持無沙汰だったのだろう。奈々ちゃんは補充用のダスターを畳んでは広げ、広げてはまた畳むを繰り返していた。
「うん、奈々ちゃん、今日って休憩十二時からだよね?」
「そうですよー、なので後十五分てとこですね」
奈々ちゃんが店舗内の時計を見上げ、私もそれを追う。見れば、確かに十一時四十五分となっている。うん、あと十五分であれば問題ないだろう。
「そしたら奈々ちゃん、ちょっと早いけど休憩入っちゃっていいよ」
「え?」手が止まる。「いいんですか?」
「お客さんいないのにフロア出ていてもしょうがないしね。休める時にしっかり休むっていうのも大事だからさ」
「それもそうですね。そしたら、せっかくなのでお言葉に甘えさせていただきます」
「うん、あとは私にまかせてのんびりいっておいで」
「ありがとうございます。それじゃ未来さん、あとお願いしますね」
奈々ちゃんはそう言って笑みを見せると、パタパタと駆けて私の横を抜けていく。ほどなく背後から「休憩入りまーす」と声がバックヤードに響き、奈々ちゃんは休憩室に消えていく。こうした融通が利くのも、深夜帯ならではだろう。昼間の、それも店長がいる時間帯では、きっとこうはいかない。私はシフトの都合上、店長と同時間帯になることは滅多にないのだが、それでも多少なりとも面識はあるし、なにより、朝の引継ぎ時に主婦連からことあるごとに愚痴を聞かされているのだ。
初めに断っておくと、店長は決して悪い人ではないし、スタッフに嫌われているわけでもない。ただ、管理職かつ店舗責任者ということもあってか、特に規律や規則に厳しいというだけだ。とはいえ、私も含めたバイトの面々や日中の主戦力である主婦の方々からすると、如何せん厳しすぎると思えなくもない。
社員であるならまだしも、バイトの身としてはなるべく気楽に楽しく働きたいというのが本音であり、それがまだ十代の学生とあれば尚更だろう。管理職としての立場が分からないではないが、それでなくとも親と子と同じか、もしくはそれ以上に年の離れた子達なのである。店長には、是非ともその点を踏まえた対応をお願いしたいところだ。でないと、もっぱらその緩衝材となっている佐々木君が板挟みの衝撃を吸収しきれなくなってしまいそうだからだ。それも、主に消化器系の内臓だったり、頭頂部であったりが。
日付が変わって少し経った頃、店舗入り口のドアベルが来店を知らせる。私は空き時間を利用してドリンクサーバーの清掃を始めていたのだが、そんな私に、既にフロアに出ていた国吉がカウンター越しに目配せをしてくる。おそらくは「俺がいきますよ」のサインだろう。私は一つ頷くと、声には出さずに唇で「お願い」と形作る。私同様頷く姿を見るに、私の思うところはちゃんと伝わっているのだろう。
国吉が来店対応に向かってくれたので、サーバーの清掃を再開する。ばらした先端のノズルの内面を、細長い棒状のたわしでごしごしと擦っていく。毎日清掃しているものなので、それこそ通販番組さながらに目に見えて汚れが落ちるなんてことはないのだが、それでも磨き残しがないよう丁寧に進めていく。一通り磨いた後は水でさっと流し、グラスを洗浄するときと同じケースにばらした部品をまとめては、仕上げにウォッシャーの洗浄機にかければひとまずは完了となる。
私一人くらいなら入れてしまいそうな業務用の洗浄機の蓋を閉め、スイッチを押すとすぐに洗浄が始まる。内部では高温のお湯が噴射されているため、まるで台風の日の窓のようにバシャバシャと弾ける音が騒がしい。
フロアカウンターに戻ると、ちょうど国吉もバックヤードに戻ってきたところだった。
「ああ、未来さん、ちょっといいですか?」
その国吉が、戻ってくるなり話しかけてくる。
「どうしたの?」
「いや、今四卓に案内したお客さんなんですけど、どうも未来さんの知り合いっぽいんですよね」
「え? 私の?」
思わず訊き返すも、国吉は「ええ」と頷いて見せる。
「今こっち戻ってくるときに呼び止められて、今日って花岡さんいますか? て聞かれたんで、多分そうじゃないかと」
「へえ、誰だろ? ちなみにどんな人だった?」
「男の人です。上下スーツの、多分未来さんと同じくらいか、もしくはちょっと年上くらいの」
国吉の言うプロファイリングとも呼べないほどの僅かな情報に、それでもしかし、脳裏には既に一人の知り合いの姿が浮かんでいる。と、同時に、いやいやまさか、とも思う。なにせ仮にそうだとしたら、今の時間からしてこの店にいるとしたら、その知り合いは自宅に帰るための終電を捨てていることになるからだ。
「ねえ、そのお客さんって一人だった?」
「はい、一人ですね。鞄持ってましたし、仕事帰りっぽかったですよ」
うーん、と眉間に皺が寄っていく。そうではないと思いつつも、思い浮かべてしまったまさかに嫌な予感が止まらない。
「うん、考えてても仕方ないし、ちょっと顔出してくるよ。何卓って言ったっけ? そのお客さん」
「四卓です、未来さん」
そんな国吉の声に送り出され、私はフロアの奥、窓際の四卓へと足を向けた。
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