花岡 未来 ― 2 ―

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 十八歳当時の私がしていた勘違いの一つに『大学生は時間に余裕がある』というものがある。それというのも、大学の講義というのは選択式であるのだから、自分の必要な単位を勘案した上で受講スケジュールを組み立てれば、決まった時間割で進められる高校時代までとは違って余裕のある毎日を送れると、そんな風に考えていた。  もっとも、そうして作り上げた日々の空白において自分が何をしたいのか、といった具体的な絵図は何一つ描いていない私だったが、そこは大学生、新たな出会いも当然あるのだから、きっとやりたいことなんていくらでも見つかると楽観視していた。  それが、蓋を開けてみれば、どうだろう。  必要な単位を勘案して? どこもかしこも必修単位ばかりではないか。そうでなくとも一年時にしか履修できない単位であったりで、気づけば毎日の受講予定は決まって一限目からパンパンだ。  結果として、私は毎朝の通勤ラッシュですし詰め状態の電車で通学することになるのだが、これが何よりも私の気を滅入らせることになる。  そもそも、それまでの私はほとんど電車に乗ったことがなかった。  地元にもJRの路線は通っているのだが、地方だけあって基本は車社会である。なので、最も使う機会が多いと思われるのが通学に使う高校生なのだが、私の高校は自転車で通える距離だったので、それこそ友人の家に遊びに行く時ぐらいにしか利用機会がなかった。  その電車自体もダイヤは一時間にせいぜい一、二本の運行間隔であり、満員はおろか座れないことの方が珍しいくらいなのだから、都内を往くような電車のそれはもはや未知の乗り物といってもいい。  そして、そんな未知との遭遇からの驚愕体験に一か月やそこらで慣れることはできずに日々ストレスを溜め続け、先のホームシックに至ったのだ。  そんな五月のある日、世間一般でいう大学デビューに大失敗していた私は『せめて夏休みまでは頑張ろう』という謎の目標だけを掲げて大学に通っていた。ここに至るまでにオリエンテーションなどもあったような気もするのだが、正直ほぼほぼ記憶にない。  その日も覇気のない顔で講義を受け、どうにか四限までをこなして帰ろうかと構内を歩いている時だった。 「あの、すいません」  ふいに横合いから進行方向を遮るように出てきた青年に声をかけられた。道を塞がれた形になったので、当然ながら私の足は止まり、その青年と向かい合う形になる。そして、返事はしないものの明らかに疑問のそれとわかる表情で青年を見返していると、その青年は落ち着かない様子で視線をさ迷わせながらも、ぽつぽつと話し出す。 「その、いや、あのですね、時間があればでいいんですけど、写真をですね……ああ、その俺は写真サークル? の者なんですけど」  言いたいことが整理できていないのか、やたらと感嘆符が多く、しどろもどろだ。 「ええと、つまり」自分なりに咀嚼してみる。「どういうことですか?」  だが、無理だった。 「はい、つまりですね」  青年が息を飲む。続いて、ふう、と息をつくのがわかった。 「写真のモデルになってもらえませんか?」  意を決しての発言だからか、その一文は詰まることなく告げられた。もっとも、語尾に至っては消え入りそうな声量であったのだが。  しかして、私は返事をする。「いいですよ」と。  今にして思えば、「普通なら断るよな」と思わずにはいられないところである。あまりに突拍子もなく、言ってみればナンパのようなものであったし、そもそも説明らしい説明も聞いていないのだから。それに、根本的な問題として、その当時の私はどう記憶を美化してみても、とても写真の撮影対象――たとえそれが学生レベルのものであっても――として耐えうる水準にはなかったはずだ。  それにも関わらず、私がほぼ二つ返事にも等しく頷いてしまったのには、ちゃんと理由があった。それは、その青年が私の欲するものを持っていたからだ。  本人からしてみれば、そんなことはないと答えるかもしれない。ただ、当時の私がまだできていなかったように、目の前の彼もまた不十分であり、だからこそ短い会話のなかでも、すぐに気づいてしまった。  あれは、意識して直そうとしても、特にイントネーションで如実に表れてしまうものであり、早い話が、訛っていたのだ。それもおそらくは、私と同じ東北訛りで。  そして、その訛りこそがホームシック罹患者であった私にしてみれば、真夏の持久走後の水道水のように求めていたものの一つであり、思わず返事をしてしまったわけだ。 「え? いいんですか?」  私の返事に、声をかけてきた当人こそが驚いていた。ちなみにこの時のイントネーションも『議員』のように頭にアクセントではなく、どこにもアクセントが付かないフラットな抑揚だった。  私が重ねて頷くと、青年はやにわに破顔すると「ありがとうございます」と頭を下げる。 「それじゃ、案内するので付いてきてもらってもいいですか?」  そう言って先に立って歩き出した彼の背に私も続く。それから数歩ほど行ったところで青年が「あ」と漏らしては足を止め振り返る。 「あの、そういえば名前聞いてませんでしたよね?」  その問いに、私も「ああ」と頷く。 「一年の花岡といいます」 「花岡さんですか、一年なら俺と同じですね。俺は村瀬です。よろしくお願いします」  それが、村瀬との初対面だった。
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