第2章 Case 1

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熊谷ユキの場合 ③  あの日は雨が降っていた。  実家への半年ぶりの帰省は、ユキにとって珍しいことではなかった。  まめに帰ろうと思えば、それも出来た。  何しろ近いし。    友達のなかには、どんなに遠くても月一回は実家に帰るという強者もいる。  家族と不仲なわけではないし、どちらかといえば仲の良い方だと思う。  仕事が忙しい、というわけでもない。  付き合っている人との関係が、上手くいっていようがそうでなかろうが、それもまた特に関係があるわけでもない。  距離に関係があるのかといえば、電車とバスを乗り継いで四十分から五十分、という中途半端な距離がそうさせるのか、なんなのか。  ただ、一人暮らしの気儘さに慣れてしまったというのは、ある。  いつでも行けると思うからこそ、足が向かない、というのも多分にある。  顔を見せに来なさいよ、という言葉に渋々従う感じが嫌なのだろうか。  どんよりと低く垂れ込めた灰色の空。  朝から降り続く雨は、ユキの足取りを一層重くさせる。  いつものように最寄りのバス停で降りた。  ぽんっと軽い音を立てて傘が開く。  行き過ぎたバスから吐き出される白い排気ガスを見ながら、ひとつめの角を右に曲がり住宅街に入る。  歩道のない狭い道路。  ここはユキが子どもの頃から、時が止まったままのような場所だ。  向かいから一台の乗用車が走ってきた。  一歩、塀に沿うように身体を避ける。    あ、水溜り。  ユキがそう思った次の瞬間、片足はその水溜りを踏む……。  ……はずだった。  気づくと尻餅をつく格好で、足を投げ出し、手に持っていた傘は放り出した姿で地面に座っていた。  びっくりした。  いい歳をして転んでしまったことに慌てて、何事もなかったかのように立ち上がり、早鐘を打つ心臓を宥めようとさりげなく胸に手をやる。  放り出した傘を拾い上げ、くるくるっと畳むとさっと左右を見渡し、誰にも見られていなかったと安堵して歩き始めた。  ……?  ユキは一瞬、違和感を感じたが、それが一体何なのかわからなかった。  しばらく歩いて、転んだことの動揺が去ると違和感はさらに増した。  ……雨が……。  雨が、降っていない。  地面はからりと乾いて、先程まで雨が降っていた様子もない。  空を見上げれば、水色の空に刷毛ですっとなぞったような薄く白い雲がある。  雨が上がった、というより降っていなかったようだった。  違和感の正体が、近づいてきているような気がする。ようやく落ち着いた心臓が、また跳ね上がった。  ……ユキは歩く速度を上げる。  次の角を左に曲がるとタバコ屋さん。  赤いポストは『お帰り』の目印。  それを過ぎれば家はすぐそこ。  子どもの頃のように、心の中で節をつけて呟く。  ……!  帽子を被った、血塗れの人が立っている……?  一瞬、ユキの足は竦んで動けなくなる。    角を曲がって最初に目に飛び込んできたのは、円筒形の庇がついた赤いポストだった。  見慣れないその形と大きさが、人のように見えたのだ。  こんなの、ここにあった?  いつもの四角いポストは、どうしたの?  ユキは駆け出したい気持ちを抑えて、足早に通り過ぎる。  家はすぐそこ。  家はすぐそこ。  家は、すぐそこに。  いまにも足が絡れそうだ。  おまじないのように心の中で繰り返し『家はすぐそこ』と呟やきながら、鉄製の門扉を震える手で開ける。ほんの数歩の玄関までの距離さえもどかしい。  何かがおかしい。  本能がそれを告げているのに、恐怖に飲み込まれたくない自分が、それを受け入れまいとわずかな抵抗をしている。  玄関のドアを開け、ユキは悲鳴を上げた。
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