第2章 Case 1

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Case 1ー5  熊谷ユキがお茶を載せたお盆を手に、扉を開けたままの応接室に入っていくと、箱崎ひなの両親はやや俯くような姿でソファに浅く腰を下ろしていた。  ユキの姿を認めて立ち上がろうとする箱崎氏を柔らかく目線で制しながら、テーブルに近づく。 「失礼します」  ここの応接室にはサイドテーブルがないため、ユキはテーブルの下座側にお盆を置くと、ひとつひとつ湯呑みの底を布巾で拭きお茶碗を茶托に載せた。 「前から失礼いたします」  ユキは眼を伏せ茶托を持つ自身の手に視線を固定させたまま、箱崎氏、夫人の順にお茶を置いた。茶托を置く、ことり、という小さな音が応接室に響く。  箱崎氏がユキに何か言いたそうにしているのを感じたが、ユキが視線を上げようとしないため、きっかけを得られないでいるようだった。  ユキは話しかけられるのを避けていた。  眼を伏せ、お茶を配り終えるとそのまま応接室を退室しようとしたその背中に、箱崎氏の思い詰めた声が掛かる。 「……あの、教えて下さい。ひなは、ひなは見つかるんでしょうか?」  ユキの足がぴたりと止まる。全身が強張る。肯定的な答えを求めている家族に、何を言っても助けにならないことはよく分かっていた。ユキの言葉が、不本意に彼らを傷つけてしまうこともある。  それでも、何か言わなければ。  早く……はやく。 「お待たせして、すみません。……熊谷、下がっていいよ」  普段とは違う、鳴りを潜めた穏やかな声。  視線の中によく見慣れた靴の爪先が現れ、ほっとする卑怯な自分が嫌になる。  ゆっくりと顔を上げていくと倉部が片手にファイルをひと抱え持ち、扉の前に立っていた。  ユキは軽く頭を下げて倉部の背後に回ると入り口でもう一度深く頭を下げ、扉を閉めた。 「ユキさん、大丈夫?」  鬼海の声に、ユキは自分が情けない顔をしていることに気付く。  龍之介までが心配そうにこちらを見ているので、ユキは無理矢理に笑顔を取り繕う。 「大丈夫です。鬼海さんこそ、そんな怖い顔をしているから龍之介くんが驚いてますよ?」   「え? そうかなぁ……。驚くほど整った顔とは良く言われるんですけどね」  そう言いながら掌で顔を撫で回すと龍之介に向かって首を傾げてみせた。   「ほら、龍之介くんが呆れてる」  軽口を叩くことで、ユキは幾分かましな気分になる。   「ユキさんが大丈夫なら、こっちも話を進めておきたいんだけど良いですか?」  ユキはお盆を持つ手を軽く上げ、給湯室に片付けてくるジェスチャーをする。鬼海は軽く頷くと、龍之介に一緒に行って三人分のコーヒーを持ってきて欲しいと頼んだ。  自分の仕事だと、慌てて断ろうとするユキに龍之介がにっこり笑いかける。 「給湯室の使い方を教えてもらえたら、助かります」  ずるい、とユキは思う。  そんな言い方をされたら断れない。 「……龍之介くんさぁ、人生何周目?」  鬼海がやや呆れたような声で呟く。  ユキに従って給湯室に足を進めていた龍之介は、一度振り返るように鬼海を見たようだったが前を歩くユキにその表情までは見えなかった。 「こんなこと聞いて良いのか分からないんだけど、龍之介くんはオウチの方に、このアルバイトのこと、ちゃんと言ってあるの?」  龍之介が慣れない手つきでカップを取り出す時の、かちゃかちゃと密やかに鳴る音と共に、コーヒーメーカーからはコポコポと蒸気の漏れる音が耳に優しい。コーヒーの木ノ実を煎りつけたような香ばしさと、果実のような甘い香りが給湯室を満たしていく。 「……クレーム調査のアルバイトだと言ってあります。報告書を上げるための現地調査の手伝いだって……本当のことを言っても信じられないと思うんです。仮に本当のことを言って信じたとしても、変な期待や余計な心配をかけるのも嫌ですし。まぁ、結果的に嘘ついてますけどね」  取り出したカップを湯でさっと濯いだら、布巾で水気を拭う。複数人のコーヒーを淹れるときにはコーヒーメーカーが俄然便利である。ユキはひとつひとつカップをコーヒーで満たすと、龍之介に二つ渡す。 「これ、龍之介くんと鬼海さんね」    龍之介は両手のカップを見比べると、何か言いたげにユキを見る。 「……ふふ。この黒いネコのカップ可愛いわよね? それが鬼海さんのカップなの。龍之介くんも自分のカップを持ってきてね」  龍之介はユキの言葉にくすぐったそうな表情をして見せた。 「はい。次に来るまでに用意します」  ユキは自分のカップを両手で包み込むように持つと、龍之介を促しデスクに戻る。  応接室の前を通る時に、視線は自然と閉じられた扉に吸い寄せられた。部屋の中からはくぐもった倉部の声が聞こえてくるが、内容までは分からない。 「……大丈夫ですか?」  龍之介がユキを見ている。  心配しすぎるでもなく、突き放すのでもない穏やかなその眼差しに、ユキは心が平らになるのを感じた。  そう、大丈夫。  龍之介は、ユキの答えを待たずに鬼海にカップを手渡しにデスクへと向かう。  ユキが一足遅れて二人に合流すると、鬼海はその姿を認めて話かけてきた。 「……ユキさんから『入り口』の分かる理由を、龍之介くんに説明してもらえますか?」  ユキはカップに口をつけ、唇を湿らせる。 「実を言うと、ここは……わたしが居た世界ではないの。帰りたくても帰れないのではなくて……わたしは別の世界から来て、帰ることを選ばなかったの」  龍之介が目を見開いてユキを見ていた。  そう、か……。  ユキは、あることに気づいて愕然とする。  なぜ今までそのことに思い至らなかったのだろう。  『入り口』が見える。  それはこの世界が、わたしを吐き出そうとしているからかもしれないと――。    
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