第2章 Case 1

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Case 1ー7  応接室の扉が開いて、箱崎氏と夫人に続き倉部が出て来た。  デスクの脇を通り過ぎ、事務所のドアへと向かう間、箱崎氏と夫人は直接誰にも目を合わせることはないものの、一人ひとりに軽く頭を下げていく。  ドアから出る前に、倉部が夫人ひとりを呼び止めた。箱崎氏は先に事務所を出ていく。 「箱崎さんが……ご主人が、防犯カメラの映像を奥様に見せなかったのは……」  箱崎夫人は、倉部の言葉を途中で遮るように首を振った。 「いえ、いいえ。あんな言い方をしましたけど、私……分かっているんです。パパの……直之さんの優しさなんだと。彼は優しい人なんです。……でも、優しさって何なんでしょうね? 直之さんの家族のためを思う優しさは、いつも私が思うのとは少し違うんです。彼が良かれと思って家族のためにすることは、相手の望むことを推し量るのではなく、自分の優しさの押し付けであったり、彼の自己満足に偏りがちだったりするんです……。君はどう思うの? と一言聞いてくれてたら、どれだけ違うのか。こうしたら相手はどう思うのか、となぜ考えられないのか……それが抜けてしまっているんです。それでも彼がすることは、善意でしていることを私は知っています。分かってはいるんです……上手く言葉に出来ませんが……」  俯く箱崎夫人に倉部はゆっくりと言った。 「……きっとご主人は、おせっかい、な性分なんですね。世話を焼き過ぎてしまう。そういうご主人……箱崎さんは、家族思いの、正義感の溢れる心配性なんですよ。こんなことが起きてしまって、すべての痛みを自分ひとりで受け止めようとしているんでしょうね。そしてまた、受け止められるとも考えている。……奥様を守りたいと、思っている」  箱崎夫人は、そこで初めて微かな笑顔を覗かせた。 「……そうなんです。……きっと、そうなんでしょうね。ひとりで空回りして、それに気づかなくて。彼、自分だけが苦しめば良いって思ってる。周りが見えていないから、私がすでに苦しんでいることに気づいていない。直之さんは、彼自身がとても心配性で、気が小さいことにも気づいてないんです。……私も、すっかり取り乱してしまいました。直之さんのこと、分かっていたつもりだったのに。気持ちに余裕がないばかりに、直之さんを責めて……。私、私たち諦めずに……ひなを待ちたいと思います」  箱崎夫人は深々とお辞儀をすると事務所のドアを出て行った。  息を詰めて倉部と箱崎夫人のやりとりを見守っていた他のメンバーは、箱崎夫人の姿が完全に消えた後もしばらくの間、閉じられた事務所のドアを見つめていた。 「……なんというか。夫婦ってすごいですよねぇ? いちばん近い他人でしょ? 自分自身の延長ではないのに、長く一緒にいるから錯覚しちゃうんだろうな。言わなくても気持ちは伝わっていると思いがちになって、すれ違う。……箱崎夫人、頑張りすぎないと良いですねぇ」  これまで誰もが身動ぎも出来ないでいた中、その沈黙を破ったのは腕を組みながらそう言った鬼海だった。 「うん。心配……」  ユキは夫人が消えて行った事務所のドアの先を思う。  箱崎氏は夫人のことを待っていただろうその間に、何を思ったのだろう。ドアのすぐ近くにも、ある程度離れた、それでも会話の聞こえる付近に居たような感じもなかった。姿は見えなくても、間違いなくひとりで帰るはずはない。  多分、箱崎氏も倉部さんが夫人だけ引き止めたことに色々と思うことがあるだろう、とユキは思う。  引き止められた夫人の心配をしたかしら。  あるいは、自身の話をしていると思い、不甲斐なさを情けなく思ったかしら。  多分、どちらでもない。きっと本人に聞いたら、わたしには思いもよらない答えが返ってくると、ユキは思う。  鬼海さんは、ああ言ったけど……。  倉部が箱崎氏のことを『世話焼き』と肯定的に言い換えたのも、夫人の気持ちを慮ってのことだったが『おせっかいなひと』は、どこまでいっても結局、自分勝手で空気が読めないのだ。検討外れな言葉で何気なく他人を傷つけているかもしれないことにさえ思い至らない。  だからこそ、良かれと思って自分の善意を押し付けるのだが……。  ユキはよく似た人を知っていた。  向こうの世界のあの人も、良い人だった。  誰にでも優しくて、人のために一生懸命で……でもそれはどれも、絶対的な自分が正しいという自信からくる価値観の押しつけにすぎないことも分からない人。    ユキが彼自身を認めてくれる最大の味方だと勝手な見解を持つ彼は、自分の親切を他人に認めて貰えない時には、代わってユキからその称賛を得るために要らぬ世話を焼いたり、すぐれぬ気分を晴らすため八つ当たりをするようになった。  それに最初のうちは(あらが)い、次には諦あきらめ、終いにはユキは耐えられずに逃げてしまったのだ。  箱崎氏はそこまで自分勝手ではないのかもしれない。夫人の話を聞いてくれたら良いな、とユキは思う。  また思い詰めた表情をしていたらしい、ユキが顔を上げると心配そうな倉部の視線にぶつかった。 「ユキ、人と人は相性があるんだよ。まぁ、言っちゃあそれが全てだ。だから、お前は気にするな。お前の場合は、相性が悪かっただけ。そんでもってお前が根暗なのが原因のひとつだよ」  にやり、と倉部が笑う。 「チーフ……大人しく聞いてれば……お前、お前って何様ですか。まったく」  ユキが顔を顰めてそう言えば、倉部は悪びれることなく言い返す。 「チーフ様だ。……おっと、そんなことより鬼海。入り口の話は済んだか?」 「うーん。チーフ様かぁ……ってのは冗談でしょうけど上手くないっすね。『入り口』の話はなんとなく分かった?」  鬼海が龍之介に話の向きを変えた。 「熊谷さんがこの世界の人ではない為、別の世界の『入り口』が見えるってことで良いんでしょうか」 「そうみたい、としかわたしも言えないの。今日話してみて、改めて分かったわ。この世界がわたしを認めていないから見えるのかもしれないって」  龍之介が頷く。 「異物として排除しようとしているってことですね」 「いや。だとしたら、他の何処かに行ってしまった人にも『入り口』が見えてないとおかしい。そうだろ? それに見えているならその『入り口』とやらに入ってみたくなったりしないのか?」  倉部の言葉に、ユキは背筋に悪寒が走る。 「……無理ですよ。絶対に……無理です。これは例えば、ですけど、全くの知らない土地で目の前に出口の見えないトンネルがあったとして、自ら喜んで入って行きますか?」 「うーん。……厳しい……かな」 「正直、怖いですね」  鬼海と龍之介が答える。 「おい、鬼海。お前はそこ、怖がるなよ」 「いや、やっぱ怖いでしょ! そもそも人間は未知のものを恐れるようになっているんですよ? たったひとりで、なんのバックアップもないまま、そんなとこに行こうと思いませんよ」 「誰だって怖い。……そうなんですよね。でも……そんなところに、ひなちゃんはたったひとりで、迷い込んで居るんですよね」  龍之介が、ぽつりと呟いた。
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