第1章 始まりの、はじまり

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第1章 始まりの、はじまり

  「ちょっと、チーフ! 倉部(くらべ)さん! 何度言ったら分かるんですか? 来客用のコーヒーカップは使わないで下さいって、あーもうっ。なんなのこの汚さ」  白いニットのロングワンピースに黒いショートブーツを合わせた姿で出勤して来た熊谷(くまがや)ユキは、それを見るなりグレーの大判のストールを畳みながら捲したてた。  外はまだ肌寒いんだな、と応接室のソファーで毛布にくるまって寝ていた倉部は、のっそりと身体を起こす。 「飲んだら、その都度カップを洗って下さい。次々と使ってないカップを使うのってどうなのよ? 綺麗好きなんだか、だらしないんだか……」 「……うるさい。頭に響く」  倉部のその一言に、ストールを腋の下に挟んだまま、手早くカップを片付けていたユキは動かしていた手を止め、ゆっくりと倉部を振り返った。 「もしかして、チーフ……また一人で『出掛けた』んじゃないでしょうね?」  んー、と呻きながら毛布に顔を埋める倉部の寝癖がついた頭に向かって、ユキは大きな声を出す。 「あれほど自分でも言っているじゃないですか。単独での行動が、どれほどの危険を伴うかって! 言ってる本人がそれやって誰に示しをつけるんですか」 「……うるさい。頼むから、コーヒー入れてくれ」 「それが人にものを頼む態度ですか?」  ぷりぷりと怒りを振り撒きながらも、ユキはカップを片付けてコーヒーを入れに給湯室に向かう。  ここはNPO法人『come back home』の事務所だ。どんな事をしているところなのか、簡単に言うと行方不明者の捜索である。  警察庁生活安全局生活安全企画課によると行方不明者の状況について、行方不明者の届出受理数は過去十年間では横ばいで推移し、毎年平均八万人であるとされ、その内、所在確認がとれず発見されない行方不明者は一千人台である、となっている。  『come back home』は、その一千人のうちの「動機が完全に不明で、その所在を明らかにする手掛かりが少なく、事件被害などに遭っている可能性も」を対象にした特殊な捜索団体だった。    倉部は無造作に毛布を剥ぐと、ソファーから立ち上がって大きく伸びをした。  首を回し、身体を捻る。バキバキと音が聞こえそうなほど、あちこちが強張っていた。ソファーの後ろに置かれたキャビネットの中から、さして迷わずに一冊のファイルを取り出すと、パラパラと基本情報を見直す。  倉部の記憶通りだった。無精髭の伸びた顎を、撫で回し思案に暮れる。  果たしてそれは、許されるのか。  許す? そもそも、誰が誰を裁くというのか?  「新しいコーヒー、入りましたよ」  ユキが両手にカップを携えて応接室に入って来た。 「どうしたんですか? ファイルなんて見ちゃって『出掛けた先』で目ぼしい発見でもあったんですか?」  ファイルから顔を上げる。途端、コーヒーの芳ばしい香りが鼻腔を通り抜け、脳を刺激する。馥郁たるその香りを吸い込み、大きく一呼吸した。 「……いや、そろそろ欠けた人員を補充しなくてはならないと思ってな」  倉部のこの言葉に、ユキは僅かに顔を歪めた。 「……確かにそうかもしれません。でも、でも『弾き戻し』があるかも」  倉部は、わざと大きく音を立ててファイルを閉じる。 「さぁな。アイツが望んだことだ。それがあるかもどうかもわからない。それに実質、『出掛けられる』のが俺ともう一人の二人では心許ない。お前は行けないんだし」  それを聞いたユキは、申し訳なさそうな、それでいて少し安堵したような顔をした。 「冷めないうちに、コーヒー飲みませんか?」  ユキがそう言って片方を倉部に差し出した時、勢いよく応接室の扉が開く。  黒の細身のパンツに、ちらりと白いシャツの裾を見せたベージュ色のスウェットを合わせ、黒いジャケットを羽織った20代中頃のなかなか見栄えの良い男性が、入って来た。  倉部の言う、もう一人、である。 「おっはようございまーす。あれ? 自分の分のコーヒーまであるんですか? ユキさん、さすがです。自分、感動です」 「おはようございます。鬼海さん……あ、それ、わたしのなんですけど」  ユキが最後まで言い終えないうちに、鬼海(おにうみ) (つかさ)はユキからカップをもぎ取ると、すぐ口をつけていた。 「うーむ。美味しいなぁ…って、それにしてもなんで皆んな揃って応接室にいるんです? あれ? 毛布……まさか、ユキさん」  あわあわ、と鬼海がおどけてみせる。 「……鬼海さん。言って良いことと悪いことがありますよ……ね?」 「えぇーっ? 自分は単に、ユキさんが寝てたチーフを起こしに来たんだって、言おうとしてただけなんだけど? 何を言うと思ったんですか?」  惚けた顔をして首を傾げる鬼海の後頭部に、倉部のスナップの効いた一発が入った。 「……でっ! 痛いです、チーフ」 「デスク行くぞ。話がある。悪いけど毛布、片付けておいてくれるか?」  最後はユキの方を見て言うと、返事も待たずに応接室を出て行く。  ユキは肩をすくめ、毛布を持ち上げると、やれやれと首を左右に振った。  「新しい人? 自分は良いと思いますよ。思いますけど、チーフがそう言うってことは既に当てがあるんでしょう?」  鬼海はデスクにもたれながら、両手でコーヒーカップを大事そうに抱えながら言った。 「一人、条件に合った奴がいる。ダメなら仕方ない。が、俺はいけると思う」  倉部は手に持ったファイルを、鬼海に渡す。  開いてあるページに、さっと目を通した。 「この……? え? まだ未成年じゃないですか? 大丈夫なんですか?」 「さてな。何をもって大丈夫、と言うのか分からないが」 「何もかもですよ……。実際、ミイラ取りがミイラになるってやつを、目の前で見ちゃった自分としては」 「お前も俺も、いつそうなってもおかしくないからな」  鬼海は唇を噛み締めながら、言葉を絞り出すように答える。 「自分は、ないです。チーフだって……ないんじゃないですか?」  倉部はわざと答えなかった。 「さて、とりあえず電話してみるかな」 「いやっマズイですって。本人の携帯ならまだしも……自宅は、絶対マズイですよ」 「日中なら大丈夫だ。ぐずぐず言ってないで、ファイルを読み込んどけ」  鬼海がコーヒーカップをデスクに置くと同時に、倉部が受話器を持ち上げた。 ***  この時、龍之介がその電話に出たのは、まったくの偶然から、ではない。  久原家に架かってきた電話を取るのは、龍之介か父親と決まっていた。とある事情から、母親は電話を取ることが出来なくなってしまったため、である。なので父親が不在である日中は、龍之介が電話に対応し、父親も龍之介も不在の時は、留守番電話が対応するというのが久原家の暗黙のルール其の一、だった。  その日は大学進学を控えた春休み、ということもあり、地元を離れる友達は皆忙しく一人暮らしの準備に明け暮れていて、地元の大学に進学する龍之介は、居残り組として特にする事もなく時間を持て余していた。  朝からダラダラと居間のソファーを陣取り、携帯電話スマホ片手にネットをあちこち覗いて時間を潰していたが、それにも飽きてきたので自転車で本屋にでも行ってこようか、と重い腰を上げた瞬間、家の固定電話が鳴ったのである。 「はい」    久原家のルール其の二、電話口でこちらから名乗りをあげない。 「久原さんのご自宅でしょうか?」  落ち着いた深みのある男の声だった。 「はい、そうです」 「龍之介さんは、御在宅ですか」 「どちら様でしょうか?」    久原家のルール其の三、相手が名乗らないようならば、問答無用で受話器を置くべし。 「倉部と申します。行方不明者の捜索をしている非営利組織に属しております。龍之介さんのお兄さんの件で、お電話をさせていただきました」  龍之介は思わず絶句する。  その気配を読んだのだろう、倉部という男は続けて言った。 「不審な電話でしょうから、龍之介さんが興味があるようなら、そちらから確認を取って折り返し連絡をくれませんか? 警察庁生活安全局の柴崎宛に電話をして、倉部という男について尋ねてみて下さい。柴崎がこちらの電話番号を教えてくれると思います」  倉部という男は、龍之介の返事も待たずに電話を切ってしまった。あまりにも不遜なその態度は、龍之介が折り返してくると余程の自信があるのか、別にどうでも良いということなのか。  龍之介は受話器を置くと、何事もなかったように振る舞い、居間から続く部屋の扉の向こうで机に向かって仕事をしている母親の背中に声をかける。 「ちょっと自転車で本屋まで行ってくるから」  母親は振り返ると書類を見る時には必需品となった老眼鏡をずらし、チラッと龍之介を見て微笑んだ後また手元に視線を戻し言った。 「気を付けてね」  龍之介は上着を羽織り、スマホをズボンの後ろのポケットにねじ込むと、玄関に行き靴を履いて外へ出たのだった。  久原家暗黙のルールが出来たのは、龍之介の兄がいなくなったことに起因する。  当時、龍之介は五歳。兄とは二歳違いの仲の良い兄弟だった。  それは夏の昼下がり、自宅の庭でビニールプールを出して水遊びをしている最中のことだ。母親が台所へ飲み物を取りに行った、そのほんの僅かな時間に、兄が忽然と姿を消してしまったのである。  それも、龍之介の目の前で。  当初、龍之介の言葉を信じる者は誰も、居なかった。  しかし、近辺に不審な人物の姿は見えず、玄関は施錠されており、僅かな時間に家の外からも、中からも誰かが庭に入ってきた様子はなかった。  つまり、信じられないことだが龍之介の言葉は正しく兄は文字通りすとん、と消えたのである。 「ママ。おにいちゃんがね、プールの中に落ちていっちゃったの」    飛び込んだプールの水の中に。  すとんって、いなくなっちゃったの。  母親が最初にしたことは、父親に電話をすることだった。  半狂乱で、支離滅裂な言葉で、父親に分かるのはとんでもないことが起こった、という漠然とした恐怖に急いで帰宅してみれば、庭にぽつんと残されたビニールプール。  警察に連絡するも、家の庭から子供の姿が消えた、などと、まともに取り合ってくれず、周囲の状況から見ても母親に容疑がかかるだけで事件の進展はなかった。  現場検証と事情聴取のみで、良くも悪くも事件は大きく報道されぬまま。  公開捜査もなし。  なぜなら警察は、育児ノイローゼによる母親の犯行とみてすぐに解決するとたかを括っていたのである。が、結局、事件は遅々として進まず行方不明事件として幕を下す。  そして幕は下りても人の口には戸を建てられず、久原家への嫌がらせの電話は、ついぞ後をたたなかった。 ***  「読みましたよ」  鬼海がファイルを団扇のように煽ぎながら、電話を終えた倉部の方を見る。 「で、龍之介くん? はどうでしたか?」 「気になれば、折り返しするだろう。どうだった? 資料は?」 「なんで、警察はあっさり引き下がったんですか? 証言が決めてになったとしか書かれていないけど、五歳の子供の証言ですよ? なんかしっくりこないっつーか。それに、どうしてこの……龍之介くん? ですか? に、オファーするのか、イマイチ分かってないんですけど」  倉部は鬼海からファイルを取り上げると、言った。 「その証言が癖ものなんだよ」 「つまり……?」  倉部が何か言いかけた時、事務所の一台しかない電話が鳴り響いた。  
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