第3章 Case 2

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Case 2-1  『お前らのところの『ミイラ』、職質受けてな。ご協力を願ったところで消えたらしい』  柴崎のひとことで、事務所内は水を打ったような静けさになった。 「……おっ、コーヒーありがとう。ここの事務所の良い所は、美味いコーヒーが飲めることに尽きるよな?」  そのような雰囲気を物ともせず、柴崎はユキの淹れたコーヒーを口に含むと、満足そうに小刻みに頷く。 「柴崎さん……今なんて……?」  倉部が眉をひそめ、柴崎を見つめる。  コーヒーカップを断りも入れずに勝手に倉部のデスクの上に置くと、スーツの内ポケットからビニールの保管袋に入れられた何かを取り出した。  それを、ひらひらと振って見せながら柴崎は龍之介に聞く。 「龍之介くんは、二千円札って知ってるか? 見たことある?」 「いえ……はい。実は、最近まで知らなかったんです。……今年のお年玉に叔父がくれたのが二千円札を五枚。最初はオモチャのお札だと思っていたら本物だって言われて」  見たことのない紙幣。  従兄弟たちと、盛り上がった。  ニセ札だ。  これ、本当に使えるの? 「そうなんだよなぁ。今の若い子たち、二千円札知らねぇんだ、これが。流通してないわ、電子マネーだわ、で」  龍之介くんの叔父さんって面白いな、俺も今度それ、やってみるか。  柴崎が独り言を呟く間に、倉部が指先に挟まれたビニール袋をさっと引き抜いた。 「……何か書いて……ある?」  倉部は保管袋から中身を遠慮なく引き出すと、目の前に掲げて見た。  黒いペンで殴り書きされたそれは。  すまない もう 戻らない 「これなぁ……。『ミイラ』が消える前に、警察庁の柴崎って人に渡してくれなんて言ったらしくて、ぐるーっとこっちまで回って来たんだけどなぁ……これ、倉部宛てだろ?」  倉部はその文字を見る。  殴り書きでも判る懐かしい文字。 「……そうです。俺に宛てたメッセージだ」  紙幣を持つ手が震える。  ……生きていた。  良かった。まだ、生きている。  そのとき龍之介は、倉部の持つ紙幣に違和感を感じた。 「……あれ? あの……この紙幣、本物の二千円札じゃないですよね? もしかしたら……」  柴崎は驚き、倉部から紙幣を引っ手繰るようにして取り戻す。 「嘘だろ? どこが? 誰も全然気づいてねぇよ……」  空中に透かしてまじまじと紙幣を眺める。 「表面が、守礼門であることに違いはないんです」  龍之介が指差しして示したのは、裏面。殴り書きの文字が書かれている方だった。 「僕たちの『世界』の二千円札は裏面に、源氏物語の第38帖『鈴虫』の絵図と詞書(ことばがき)それから、作者の紫式部の図が描かれていますよね?」 「いや…まぁ。うん? そう……だな?」  柴崎は狼狽(うろたえ)たように、倉部に助けを求めるも、首を竦める仕草を返されただけだった。 「龍之介、いいから続けろ」 「はい、倉部さん。……続けます。続けて言いますと、この紙幣の裏面に描かれているのは『鈴虫』ではないんです」  それに描かれているのは、『鈴虫』の並びの巻とされる『横笛』の絵図と詞書である。  作者の紫式部の図に至っては同じ。 「分からん……つか、さっっッぱり。分からねぇな」  顔を近づけて紙幣を覗き込むように見ながら、柴崎は吐き捨てた。 「そもそもよ、並びの巻って何よ?」 「二千円札に興味があって、ちらっと調べただけなんで源氏物語を詳しくは僕も知らないんですけど、本の巻、並びの巻といって、巻の分類とかそれに関係するものみたいなんです。並びの巻を持たない本の巻はありますが、並びの巻には、必ず対応する本の巻があるという関係で……まぁ、簡単に言えば元はひとつだったけれども、それを分けたもの、と考えられているようなんです」  龍之介が説明を終えても、柴崎は歪めた顔が戻らないまま首を捻る。 「……みたい、だの。ようだ、だの。難しいことは置いといて、これはこの『世界』の二千円札じゃないんだな?」    はい、と龍之介は頷いた。 「だとすると……」  倉部が首を捻ったまま、続けた。 「……その紙幣が流通する世界に、居るのかもしれない」 「そこに酒井……さん? ……が?」  愕然とした様子で鬼海が放ったひとことは、龍之介を除く四人を驚かせるには充分だった。  そもそも『酒井』とは、どのような人物なのか……。  龍之介に説明したのは、いつになく歯切れの悪い倉部だった。 「酒井さん……『酒井』はな、失くしたものを取り戻そうとしている馬鹿だ」  倉部の突き放したその物言いは、その場にいた全員を凍りつかせた。 「……もっとも、この事務所を立ち上げたのが『酒井』だ。  開設当初、この事務所『come back home』はごく普通の非営利組織で、行方不明になった近しい者を持つ人、残された家族の不条理感を少しでも軽くしたいという意志から、出来得る範囲での様々な支援を行うところだった。  同じような組織がある中で、『酒井』は自分と同じように苦しむ、残されてしまった家族の気持ちに重点を置く事務所を作ることにしたんだ。  その頃の俺は、まだ柴崎さんと同じ『本社』勤めで、仕事柄『酒井』と付き合いがあるくらいだった。  そんな時、はっきりとこの事務所『come back home』が変わるきっかけとなった事件が『酒井』のところに舞い込んだ。  ……ユキ。  お前は、知っているよな?  あの時のスタッフで残っているのは、ユキだけだ。  俺と鬼海が加わったのは、この事務所が今のような捜索をするようになってから……。  あの時、一体『酒井』に何が起こったんだ?」  
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