第1章 始まりの、はじまり

2/4
前へ
/66ページ
次へ
 龍之介は、ひとまず駅前に向かって、自転車を走らせることにした。駅前の複合施設に入店している大型書店が目当てだ。本の背表紙を眺めているだけでも楽しめる彼にとって、時間を潰すには、もってこいの場所である。  そんな龍之介であったが、実際のところ本当に好ましく思っているのは個人で営む書店、いわゆる町の本屋だ。  最近、近所に個人が営むカフェと併設された小さな本屋が出来たが、本屋とは名ばかりのお洒落なカフェで、龍之介の求める昔ながらの本屋はこの住宅地の中には存在しない。  龍之介の理想とする本屋とは、父親の実家がある古い町の寂れた商店街の本屋である。  鰻の寝床、と言われる間口が狭く、奥に長く広がる店内は、初めて連れて行って貰った幼い頃の龍之介にとって、恐ろしくも魅力的な場所であった。奥に行くほど薄暗く、古い蛍光灯の光が時折り点滅を繰り返し、そこにある絵本をすべて、何か陰りを帯びたもののように浮かび上がらせていたものである。  あの場所で龍之介は、片方の手に貰ったお小遣いを握りしめ、父親と残りの手を繋いで冒険を探す冒険をした。今もあの頃と同じように、あの本屋は存在しているのだろうか。  龍之介の住んでいる街は、もともとは農村が広がっていた地域である。  学術・研究都市として開発された所で、計画造成された市街地が碁盤の目のような格子状の道路網の中につくられている。 市中心部より電車で最短45分で東京都心と結ばれているが、中心部を少し離れただけで昔とあまり変わらない農村の風景も目にすることが出来た。  龍之介は、自転車で街を走るたび、碁盤の目の中にびっしりと行儀良く並べられた住宅のひとつに暮らしていることを、まざまざと実感する。同じ区画の同じような家いえ、無心で自転車を走らせていると、今自分は何処にいるのか、何処に向かっているのか分からなくなるのだ。    日差しは春の温もりを感じさせるが、頬に受ける風はまだ、冬のように冷たい。  先程の電話の相手の声が、龍之介の頭の中に何度も語りかけてくる。  お兄さんの件で  警察庁生活安全局の柴崎宛に  倉部という男について尋ねて  龍之介は目的の書店に行く前に、寄り道をすることにした。 ***  「はい。カムバック…… なんだ、柴崎さんか」 「俺で悪かったな」  柴崎は倉部が警察庁に入庁した時の先輩である。  倉部が警察を辞め、NPO法人に入った後も繋がりがあり、何より数少ない事件性のみられない行方不明の案件を、それとなく『come back home』の事務所に回してくるのだ。  倉部は背もたれに寄りかかると、天井を仰ぎ見る。電話口の向こうに居る柴崎を思い浮かべた。火の点けられないタバコを咥えて、右手にはボールペン、紙には意味のない落書きを絶えず書き殴りながら電話をする。  そうだ。倉部が入庁した頃は、部屋の中はまだ禁煙とは無縁で、誰もが煙の中で仕事をしていた。 「倉部よぉ、また何か企んでるんじゃないよなぁ?」  ぐりぐりとボールペンの紙を引っ掻く音が聞こえる。 「柴崎さん、それは言いがかりですよ。誰かから何か言われたんですか?」 「んあ? んー。電話がなぁ。倉部のトコの電話番号を教えて欲しいって、やつだな」 「そうですか。それで、教えたんですか?」  倉部は鬼海を見て、声を出さずにニヤリと笑った。  鬼海はぐるり、と眼玉を廻してみせる。 「教えた。で、俺の記憶違いでなけりゃ、久原ってのは例の特殊な行方不明の関係者か何かじゃなかったか?」 「そうですね」  倉部が体勢を変えると椅子が、ギイッと鳴いた。 「見つかったのか?」 「いえ。その時は、いちばんにお知らせしますよ」 「だよなぁ。……じゃあ何だ? まさかのリクルートなんて言うんじゃないよなぁ?」 「さぁ、ご想像にお任せします」  なんだか話が長くなりそうだ。倉部は腕時計にちらりと視線を送る。 「今、時計見たろ」  倉部は思わず笑ってしまう。  完全に読まれている。  柴崎は、変わらない。倉部のために変わらないでいてくれるのだろうか?  こんな時にはいつも、あの頃に戻れたら、と思ってしまう。  そうしたら、あいつだって……。  くだらない考えが頭の中をよぎり、それを払うように頭を振る。 「柴崎さんには、敵わないですよ」 「だてに五年も長く生きてないわな。ま、解放してやるよ。後で詳しく聞かせろ。ついでにミイラになっちまった奴の話もな」  倉部が何か言う前に、電話は切られてしまった。  宙に浮いた言葉を飲み込む。  その話、一体何処で仕入れて来たんですか、柴崎さん。 「読みは当たりでしたね」  鬼海の声で、現実(われ)に返る。  こいつの声にいつも助けられているような気がするのは、何故だろう。  鬼海は机の上で頬杖をつきながら、言った。「で、柴崎さんは最後、なんて言ってたんですか?」 「ミイラになっちまった奴の話が、聞きたいって言われた」 「うーわぁー。柴崎さん、どっから仕入れたんですかね? 相変わらず半端ないな。それともこの部屋、見られてたりして」  倉部は苦笑する。あり得ないことではないような気がするからだ。 「そう言えば、癖ものの証言って、何なんですか?」  鬼海がそう言ったとき部屋に熊谷ユキが、捲った袖を下ろしながら入ってきた。どうやら洗い物や片付けが済んだらしい。  倉部は感謝の意を込めて、右手を上げる。それを見たユキは顔をしかめて、小さく舌を出した。 「お前さ、一度しか会ったことのない相手をどの程度覚えていられる?」 「いやぁ、自分はさっぱりですね。ホント言うと、何度か会ってもなかなか覚えられないんで、結構困ってます」 「じゃ、昨日のユキの服の色は覚えてるか?」 「あー、暖色系だったような。いや、まてよ。さっぱりしたような感じだった? やっぱり違うな。ピンク。ピンクのふわぁっとしたセーター!」  ユキは軽蔑したような目を二人に向ける。 「何を話しているのか、聞いても良いですか?」 「ユキは、初めて会った相手の印象はどこで覚えてる?」 「うーん。相手と話したりしているなら、顔……ですかね? すれ違ったりなら服? 服の色? 何なんですか? 泥棒とかですか?」  困惑した二人の顔を見比べながら、倉部は言った。 「目撃者証言の信憑性について、どう言われているか、お前らだって知っているよな?」  倉部の言葉を受けて、鬼海が答えた。 「そりゃあ。自分も一応こういう仕事をしているわけですからね。記憶が曖昧であるってこと…… つまり、記憶は相手に対する印象や誘導によって簡単に書き換えられちゃったり、都合よく再構築されちゃったりってのがあるってことですよねー? ん? て、ことは自分、ユキさんに、ピンクのふわぁっとしたセーターを着て欲しいってことなんですかね?」  ユキは軽く鬼海を睨む。 「わたしも知ってますよ。記憶したことの40%がわずか30分で消えてしまうって言われているんですよね」 「そうだ。記憶ってやつは曖昧で、他人によっていとも簡単に操作されてしまうんだ。ちなみに、ユキ。昨日の服装は?」 「昨日は……茶系のシャツワンピに、ざっくりした白いニットカーデを合わせてました。実はわたし、一週間分の洋服を日曜日に用意するんですよね」  少し得意気にユキは胸をそらす。 「えー。自分は朝に起きて決めるなぁ。前日に用意しておいても、窓の外見るとやっぱ違うってなったりしません? さてはユキさんって、本当はかなりの面倒くさがりですね? 考えてみるとワンピースばっかりなのも……」 「……お、鬼海さんっ」 「ユキ、怒るな。図星なのは分かったから」  倉部は話を元に戻す。 「で、記憶は当てにならない。が、それに当てはまらないやつもいる」 「それが、久原龍之介だと言うんですか?」 「そうだ。龍之介は『カメラ・アイ』の持ち主だからだ」  『カメラ・アイ』とは瞬時にして、カメラのように目の前の画像を記憶することが出来る特殊な能力のことで「瞬間記憶能力」とも呼ばれているものである。  それは先天性的なもので、一度記憶したものは、決して忘れることがない。しかし、その能力を持つものは「忘れられない」ことに悩んでいることは、あまり知られていないのもまた事実だ。  更には、見たもの全てを覚えてしまう者、数字だけを覚えていられたり、人の顔を覚えるのが得意だったり、自分で記憶のスイッチを入れられる者がいたりと、様々な『カメラ・アイ』があることも、同じく知られていないのである。 「で、久原龍之介は、どのタイプなんですか?」 「うん。俺が思うに、人の顔を覚えるやつか、スイッチ型じゃないかと考えている」  ユキは、ようやく何の話をしているのかが分かって驚いた声上げる。 「もしかして、新しく入って来るって人ですか?」 「いや、まだ決まってないから」  鬼海が素早くかぶせる。 「そうだ。だが、多分、龍之介は来る」  倉部の言葉を裏付けるかのように、事務所の電話が鳴り響いた。  今度こそ久原龍之介からの着信であった。  
/66ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加