第3章 Case 2

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Case 2-3 2009年 4月  『この事務所を立ち上げて、二年。時間とはときに残酷だ。  ここを訪れる人々は皆、自分に降りかかった不条理なまでの突然の別れに、心の整理がつかないまま日々過ごしている。大切な人との記憶が薄れていくということは、時の施す贈り物なのか、忘れたくない者にとっては残酷な現実か。  開設時から働いてくれた猿渡さんが、結婚を機に海外へ転居することになった。6月に退所する予定だ。それまでに後任を紹介してくれるらしいが、どうも彼女の幼馴染みらしい。少し変わった人だと言うが、どのように変わっているのか聞いても言葉を濁すばかりで、良く分からない。  まだ会ってもない人に対して少し失礼過ぎるが《変わった人》というのが第一印象に受け取られるような人ならば、いくら猿渡さんの推薦があったとしてもこの話は無かったことにして貰おう。  それにしても、春だ。  昨日、散歩がてら歩いた公園の池の周りの桜も、テレビによれば今日がその満開日だというが、やはり桜は咲ききる一歩手前が良いように思う。満開の桜の下をひとり歩くのは、綺麗というよりも何やら恐ろしさすら感じる。    そういえばあの頃はよく休みの日には、はしゃぐ子どもの小さな手を引いて、あの公園の端にあるこじんまりとした動物園や遊園地を歩き回ったものだ。  子どもが駆け出すのは、決まって動物園の入り口近くの色鮮やかな遊具が見えた時。それまで離れまいと固く繋いでいた手を、もどかしそうに振り切り離すと、ひとりで走って行ってしまうのだ。  慌てて追いかけるこちらのことなど、振り返りもせずに。  早いもので、あの日からもう四年も経ってしまった。あの子が生きていたら、この4月で八歳になる。こうしてきっと、いつまでもあの子の歳を数えるのだろう。  時が癒しになる?  本当に?  覚えておきたい些細な幸せな記憶が消えてゆき、残るのが最悪のものの私にとって、時とは一体何なのだろう。』  倉部から手帳を受け取り、読み上げていた鬼海が「4月の記載はこれまでです」と言いながら顔を上げる。  不思議な静かさが応接室に満ちていた。  龍之介は鬼海の声の中、過去の亡霊が事務所内を彷徨う姿が見えたような気がした。 「……何があったんですか? この酒井さんって方に」  呟く龍之介の声は、その場に居た全員に聞こえたはずだった。  けれども誰ひとりとして身動きすらせずに、龍之介の声は天井に消えてしまう。 「先に続きを読んでしまおう」  ややあって、倉部が静かな目線で龍之介を見ると、鬼海に先を促した。 2009年 5月  『「身元不明迷い人台帳」で行方不明の娘を探すのを手伝って欲しいとの依頼を受け、まずは私が依頼人の方と一緒に警視庁に行くことにした。  この依頼人の方は、娘さんが何処かで生きていることを信じ、行方不明の届け出はしたものの何もしないまま三年が経ってしまったのだそうだ。  もう三年。まだ三年。探すことが出来なかったのだ、と言う。 「探しさえしなければ、いつか帰ってきてくれるのではないかと、どこかで思う気持ちがあった」「しかし、それももう苦しくなってしまった」そう言って顔を歪められた。  身元不明相談室は警視庁本部の正面玄関を入ってすぐにある。  私は依頼人が相談室の担当の方と話しをする間、部屋に設置されているパネルの前に立っていた。パネルには、似顔絵と共にその人物の特徴が書かれている。 「私を知っている人はいませんか」  そう語りかけるように書かれたパネルの前で、私は彼らの声に耳を傾ける。  しばらくの間、そのパネルの一人ひとりの似顔絵と向き合っていたら、いつの間にか依頼人が私の背後に立っていた。 「彼らを探している人達も、きっとどこかにいるんですよね」  私は依頼人の言葉に頷き返す。  当たり前だが今日一日では全てを確認することは出来ず、何回か通うことになりそうだと依頼人は静かに笑った。 「全く娘を探さなかったかと言えば、そんなことはないんです」  近くの喫茶店に2人で入り、会話が途切れた時、それまでは関係のない話に終始していた依頼人が唐突に話始めた。 「娘はわたしの影響でゴルフが好きでして。幼い頃からツアートーナメントを観にあちこち連れ回ったせいかもしれませんが……」  依頼人はテレビで観るツアートーナメントの観客の中に紛れて娘が映っていないだろうかと、番組を録画してはプレーを見るよりも観客を熱心に見ていた、と言った。  街を歩く時も、さりげなく娘の行きそうなところを選んだり、人が沢山写っている写真やポスターに娘の姿を探したり。 「およそ現実的ではありませんよね? わたしにとって娘は必ず生きていて欲しい、生きていなくてはならない大切な子どもなんです。それが……まさか……」  考えることもしたくなかった。  想像することさえ嫌だった。  だからそういったところばかりに目をやり、この中のどこかにきっと娘は居るのだと自身を騙し続けてきたのだそうだ。 「もう、限界でした」  そう依頼人は言って私を見て笑う。  泣き顔を裏に隠して。』
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