最終章 Case 4

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Case 4 兄と弟 朔太郎⑤  公園を抜けると図書館がある。  その途中にあるモニュメント像の前で、朔太郎は立ち止まった。  猫のいない、像。  久しぶりに目にしたこの像には、当たり前に猫は存在しない。紬が言うように、朔太郎が並行世界を移動したと考えれば、おそらくは昔、弟と一緒に見たものと同じものではないのだと、改めて眺めてみる。  忘れちゃったなぁ、どんな猫だったかな。  朔太郎と違って、特殊な能力を持っていた弟であれば、一度でも見たことがあるものは、そのまま紙に書いて(こういう猫だよ、ホラね?)見せることも出来るのだろうが、自分にはあいにくそのような特技はない。  『どうやったら、その絵が描けるの?』  幼い弟の声が聞こえる。  腹這いになり絵を描く朔太郎に、背後から覗き込む弟の柔らかい頬がくすぐったい。  後から母親に怒られるのを承知で、家にあるコピー用紙を床の上にばら撒き(買ってもらった絵画帳よりも、すべすべしていて描きやすくてお気に入りだった)一枚描いてはまた別の新しい紙と自由気儘に描く朔太郎の脇から伸びた小さな手が指差しているもの。そこに描かれていたのは、カブトムシを捕まえる笑顔の自分。  弟は朔太郎の絵を見て、羨ましそうに尋ねるのだ。  『お友達も、みんなそういう絵なの。楽しそうな絵なんだ。どうやったらぼくにも描けるの?』  不思議と、朔太郎の中に仕舞い込んであった記憶が、次々と蘇る。  朔太郎の知る弟は、絵を描かない。  みんなみたいに上手に描けないからと言って、絵を描くのが好きではなかった。  幼いながらも弟は知っていたのだ。  絵が上手いというのは目の前のものをそっくりに描くのではなく、そのときの空気を線で現し、匂いを形にし、想いを色で塗り潰すことなのだということを。それが心を揺さぶる絵になるのだということを。  弟は見たものを忠実に再現することは出来たが、それ以外のことは出来なかった。  だから描かない。  それは朔太郎と弟だけの秘密だった。  『これをさ、真似して描いたらいいじゃん。ホラ、こうして……ここは、こうだよ……。ね? 分かる?』  朔太郎が弟に自分の絵を描いて説明する。  するとまるでコピーをしたかのような、そっくりな一枚が出来上がった。  『わあっ。見て? 出来た。これでぼくも、みんなと同じ絵が描けたよね?』  朔太郎の絵を、見事に模写してみせた弟の目を輝かせ嬉しそうに笑う顔を思い出せず、頭を振る。  自分の中の記憶を探ることに夢中で、俯きがちに足元を見ながら歩いていた朔太郎の鼻先に、突然ふっと強くコーヒーの香りが掠めた。  人影を感じ、体当たりを避けようと顔を上げて辺りを見回してみても、近くには誰もいない。遠くで憩うぽつりぽつりとした人。  あれ?  朔太郎は半ば首を傾げながら、背後を振り返る。その瞬間、コーヒーの入ったカップを大事そうに抱えた女性が目の端に見えたような気がして目を凝らし再び見回したが、やはり誰もいないのだった。    気のせい……?  そう。気のせいと言えば頭の中で流れていた歌を、弟が突然歌い出したこともあったと朔太郎は小さく笑みを浮かべる。  シンクロニシティ。  その集合的無意識のなかで今も何処かに存在する筈の弟と繋がっているとしたら、自分が弟のことを考えている今、きっと弟も朔太郎のことを考えているのだろう。  朔太郎は空を見上げて、小さな弟を想う。
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